小説

『風に乗せて』小山ラム子(『てでっぽっぽ(岩手県)』)

「ここ難しいよね。まずは単位をそろえるところからはじめようか」
 午後の三時から始まるこの仕事は、ほとんどが子ども達の勉強を見るところからスタートする。もう学校で宿題を終えて、早速体育館でボール遊びをしたり、絵を描いたり本を読んだりする子もいるが、そこには別の職員がついている。
わたしは勉強担当になっていることが多い。入った頃に「頭のいい現役大学生が来てくれて助かるわ」なんて言われたけれど、大学での勉強は偏っていたし、自分が分かっているのと教えるのとでは大分勝手がちがう。小学校高学年ともなると、結構な難易度の問題もあるので気が抜けない。
 そういえば、と六月辺りの出来事を思い出してつい笑いが込み上げる。子どもがやっているのと同じ問題集を書店で見つけ、買おうと思い手にとったところで偶然竹内さんに会ったときのことだ。
 竹内さんは保育士や放課後児童支援員の資格をもっているベテランさんで、初心者のわたしにもとても丁寧に接してくれる素敵な人だ。 そんな竹内さんが、「あら、森下さん! こんにちは!」と笑顔で挨拶してから、わたしが手に持つ問題集を見て目を丸くした。
「もしかして勉強のために買うの? そんなの経費で買うよ! むしろわたしが買うから!」なんて言って奪い取るようにしてわたしの手から問題集を取り上げ、呆気にとられているうちに竹内さんはレジへと向かっていった。
「もしかして、みんなが『勉強任せられる』なんて言ってるの聞いてプレッシャーになってた? ごめんね」
 そう言ってくれた竹内さんの気持ちは素直にうれしかった。
 元々自分は抱え込みすぎる性格だ。だから側に竹内さんみたいな人がいてくれると思うと精神的に楽になるし、ずいぶんと心強い。このときはまだバイトを始めて一か月くらいの時期だったけれど、竹内さんの優しさを知ってからますます気合が入った。
「ねえねえ、先生って彼氏いるの?」
 勉強を教えていたわたしの袖を引っ張って、そう言ったのは蓮くんだった。女の子に聞かれたことはあったが、男の子からは初めてだった。
「今はいないよ」
「じゃあこの中だったら誰と付き合う?」
 この中、というのは今蓮くんと一緒にいる三人の中だろうか。「なに言ってんだよー」と他の二人は言っているが、それでも男としてのプライドはあるだろう。どう返したら正解か迷っていると「先生困ってるでしょ!」と勉強をしていた愛(ま)菜(な)ちゃんがおおきな声をあげた。
「うわっ、こええ!」
 笑いながら部屋を出て行く蓮くん達を見て「男子って本当うるさい」と愛菜ちゃんが呆れたように言う。蓮くん達と同じ小学四年生とは思えない。
「注意してくれてありがとね」
「いえ、そんな」
 そう言いつつも愛菜ちゃんの口元はほころんでいた。
 それを微笑ましく思いながら、彼氏の有無を聞かれても子ども相手なら笑えるのになあ、なんて以前のバイト先のことを思い出す。
一年生の頃にバイトをしていた居酒屋は、夫婦で切り盛りしている小ぢんまりとしたお店で、働きはじめは楽しかった。しかし、その楽しさは長くは続かなかった。酔った男性客にからまれる頻度が日に日に増していったからだ。
 店長やその奥さんは「若い女の子が入ってくれたおかげでお客さん達も盛り上がってるわ」なんて悪気なく言っていたけれど、店員の立場にあったわたしにとって、その言葉は重荷になった。

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