小説

『ある日、図書館で』石咲涼(『三枚のお札』)

 もう半年になるだろうか。私は突然左耳が聞こえなくなった。耳に聞く薬はないと聞いたことがある。それは聞きたくないことがあるからとか、本心に耳を傾けていないから、自分にとって不都合な人からの忠告を無視している……ということらしい。
「そうね、もしそれが本当ならそうかもしれない」
 と私は一人呟く。耳の検査をしても異常がなかったのでそう思った。確かに私は聞きたくないことがありすぎた。コロナ禍で、友達のコロナ離婚、外に行けないためにストレスで育児ノイローゼ、世の中には大変な事件になりそうなこともあるかもしれないが、大抵はそこまでのことではない。我慢が出来なくなっているか我儘だ。聞いていて首をかしげるような話も多い。要は愚痴の嵐だ。ただ生きていることに感謝できない、恵まれていることに気付かない。誰もがみんな自分が正しい。
 そして、私もそうなんだろう。幸せを見つけた先から、気に入らないことに目が付く。一体いつからこんな風になってしまったんだろう。
 耳の奥でぶつぶつと音がしてきた。これが続いた後に激痛が走る。それでも私は休む間もなく動き続ける。母親とはそういうものだからだ。

 待ち合わせしていた病院に着くと母は思ったよりも元気だった。コロナの影響で手術説明の付き添いは一人。けれども入院と手術は立ち入りが許されなかった。
“ウイルスを持ち込まない、自分の身を守る”待っている間、壁に貼られた紙に目がいった。コロナに対応している人達の声だ。不安や差別、これを読んでいると自分の悩みなんて大したことがないと思う。でも今は自分より大変な人のことを知ってもそれはそれで、大変だね、偉いね、と思ったとしても自分とは全く別の世界のことだと考える人が増えているそうだ。本人もそう割り切った考えをしていることに気付いていないらしい。
 確かに私の周りでもそういう人がいる。自分が辛いことばかりに目がいって、あの人も頑張っているから私も頑張ろうとか、もっと頑張れる気がする、とはならないらしい。   
 なんだかどこへ行っても悲しみを感じる。私の心が一杯いっぱいだからだろうか。こんな世の中をこれからの子供達は生きてかなくてはいけないなんて、なんて大変なんだろう。幼い娘のことを考えると心配になる。
ため息をついて紙から視線を外すと思いがけない人と目が合った。 
「まりえさん?」
 と相手も驚いたようだった。
「こんにちは。今日は母の付き添いで来たの。あの、美香さんここで働いてるのね」
 看護師らしいと聞いてはいたけれど、こんなところで会うとは思わなかった。
「そうなの。見たことある人がいるなと思ったらまりえさんだった」
 いつもながら明るく笑顔が素敵な人だ。仕事をしているから時々しか会うことがないけれど、いつ見ても軽やかな素敵ママ。そして素敵な看護師なのだろうと思ったところでちょうど母が呼ばれ、またねと挨拶をした。
 手術の説明は何度経験しても嫌なものだ。不安が100%なくなることはない。手術とはそういうものだと理解しているけれど、もし病気にならなかったら、こんな気持ちにならなくてすむのにと思ってしまう。でも病気にならなければ、立ち止まることも、振り返ることも、何もない毎日がありがたかったことにも気付かないのだろう。だから嘆くことばかりではないんだ。

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