娘の声に、意識が現在へと帰ってくる。またしても赤いゴムボールが転がってきていた。気づくのが遅れたせいで、ボールは私の脇をすり抜けていく。
慌ててボールを追っていると、スケッチブックを広げて絵を描いていた男性が拾ってくれた。目が合うと、貝が合わさる小さな音が聞こえた気がした。
「あの、ありがとうございます」
「はい」
それだけでは足りなくて、言葉を重ねる。
「えっと……すみませんでした。助かりました」
「はい」
「とてもとても助かったんです」
「僕もですよ」
「うそ。そんなはずは……だって、とんでもなく迷惑を」
「ママー。ボール早くー」
遠くから娘の声がする。
「どうもすみませーん」
夫も離れたところで頭を下げている。
「ボール早く、だそうですよ。はい」
けして指先が触れたりしないよう慎重に差し出されたボールを受け取る。
「本当にありがとうございました」
「友達ですから」
そうして、会話は終わりとばかりにスケッチブックに視線を落とした。
私は男性に背を向け、娘と夫に向き直る。大きく手を振り、それから赤いボールを思いっきり投げた。遠くへ、もっと遠くへ飛ぶように。
ボールが無事二人のもとに渡ったのを見届けて振り向くと、もうそこに先ほどの姿はなかった。
少しへこんだ芝生に触れる。初めての温もりを感じた。