「じゃあお願い。家に帰るのが怖いの」
「だったら、どこかそういう場合の施設とかを頼ったらいいんじゃないかな。僕みたいなよく知らない人じゃなくてさ」
「森さんは知らない人じゃないよ。友達だよ。違う?」
「友達、か。だとしたら、雪子ちゃんは僕にとって初めての友達だな」
私がびっくりしていると、森さんは諦めたように笑った。
「うん。わかったよ。でも家に帰るか施設を頼るか考えて。それが決まるまでだったら」
森さんの家は古いアパートの一室だった。部屋は四畳半と六畳しかなかったけれど、相変わらず森さんは指一本触れないどころか掠ることさえなかった。そのかわり、心は近くて、いつも寄り添ってくれる気がした。
数日という約束だったけれど、三日経っても、四日経っても、一週間経っても、もう森さんは帰れとも言わなかったし、施設に連絡しようともしなかった。
親子でも恋人でもない私たちは、年齢も離れているし、性別も異なるけれど、友達としかいいようがないと思った。友達としかいいようがないけれど、他の人から見たらそうではないこともわかっていた。
だから私は、これからも森さんと一緒にいられるように人目を避けるようになった。学校にも行かなくなったし、アパートから出ることもやめた。代わりに掃除や洗濯、食事の用意などの家事を引き受けた。森さんは家事が苦手だったらしく、快適になったと喜んだ。
私たちは一組の二枚貝みたいだった。古典の授業で見た貝合わせみたいだった。美しい絵が描かれた、ぴたりと重なる貝殻。
けれども貝は容易く割れた。
森さんの留守中に誰かがやってきたのだ。友達もなく、通販なども利用しない森さんだから、来客は珍しい。
「森さん。森さん。留守ですか?」
私は息を潜め、居留守をつかった。
インターフォンのついていないドアを叩く音が激しくなり、なぜか鍵が開けられた。
「白井雪子ちゃんだね?」
ふいに名前を呼ばれ、反射的に頷く。すると、それが合図であったかのように、険しい表情の大人たちが土足でぞろぞろと入ってきた。
女の人が駆け寄ってきて、私の両肩に手を置いた。久しぶりに人に触れられたせいで、びくりと体が反応してしまう。そのことをどう理解したのか、女の人は同情に満ちた目で私を見つめ、「もう大丈夫よ」と言った。
なにが大丈夫なものか。貝の中には誰にも入ってきてほしくはなかったのに。
そのまま私は連れて行かれた。帰ってきた森さんがどれほど悲しむかとそればかり考えていた。
それからのことはあまり覚えていない。
母の嫉妬から逃れたくて早い結婚をした。あなたと張り合う立場ではないのだと示したくて。
その選択は功を奏し、母は私のことをライバルとして見なくなったように感じる。戦線離脱したと見なしたのだろう。初めから敵対などしてはいなかったというのに。
「ママー。取ってー」