小説

『恋のかたみ』和織(『春の夜』)

 ゆっくりと流れた言葉は、拒否できないくらいに柔らかい音をしていた。それは直美の耳から脳へ浸透し、そこへ意味がやさしく植え付けられる。元通りになった世界の感触と温度が、直美は恐ろしかった。そしてその暖かい恐怖の波は、たった一枚の扉を隔てた向こうに控えている。認めてしまえば、あっという間に飲み込まれてしまう。
「耐えられます」直美は言った。「あれは清です。それではいけないですか?彼を見ているのが、悪いことですか?」
「悪いことは、何もなかったんだと思います。人の想いが重なって、あなたはたまたま、別の人で自分の夢を叶えることができました。でもそれは、愛情によって自分や周りを傷つける行為です。失礼な言い方かもしれませんが、山田さんのように稀有な人に出会っていなければ、こうはならなかったでしょう」
 直美は輪賀を見た。そこには、いつもの表情が戻っている。
「あなたも山田さんも、松村さんも、とてもやさしい人です。やさしい人は、気持ちが大きくて重い分、それがこぼれたとき、落下の速度が速い。速ければ速い程、反動の力を大きく受け、心が硬くなります。心はそう簡単に壊れませんが、硬くなった分ほぐすのには時間がかかります。ですから松村清さんの亡霊は、しばらくは消えないでしょう。ですが、いつかは消える瞬間が来ます。でもその「終わり」を、あなたは独りで迎える必要はない。始まりも終わりも、流れの中にあるただの標識です。お二人でなら、自然とそこを通り過ぎることができると、私は思います」
 そう言った輪賀の声が、自分の中の何かを溶かすのを、直美は感じた。するとそこに在る世界に体が馴染んでいき、その分、恐怖が薄まっていった。

 

* * *

 

「常連客だった直美に僕が一目惚れしたんです。いつも彼女を見ていたので、だんだん、元気がなくなっていくのが、ずっと気になってました。あの日の彼女は本当に、危ないなって、思うくらいで・・・たまらず声をかけました。おかしいことには、すぐに気づきました。清って名前で呼ばれ続けて、彼女には自分がその人に見えているとわかっても、清でなくなったら彼女はいなくなってしまうと思うと、本当のことが言えませんでした」
 山田竜太郎は、ずっと独りで抱えていた堂々巡りの思考に決着をつける為に、輪賀卓亞を訪れていた。
「彼女の元同僚の方に、松村清さんのことをきいて、彼のことを知った後も、その亡くなった人を、利用し続けました。彼女と一緒にいる為に、ずっと卑怯なことをしてきました。詐欺と同じです。だからこそ、ちゃんと償いたいんです。本当の松村清さんを取り戻して、彼を失ったときの彼女を救いたいです」
「では、まず二人になって下さい」
 輪賀は言った。
「え?」
「いきなり松村清を切り離してはいけません。しばらく、松村清兼山田竜太郎でお願いします。筋肉も、急に伸ばすとそれまで以上に硬くなってしまいます。反動の力というのは、狙って産まなければ厄介なものでしかありません。彼女の心もそういう力によって硬くなっていますから、これ以上それを産まないことが大切です」
 小学校の先生のような口調の輪賀に、竜太郎はしっかりと頷いた。直美を失う覚悟を持った彼に、「そんな覚悟しなくていいのに」と輪賀は内心で同情していたが、こういう真っ直ぐで周りが見えなくなっている状態の人を見ているのが割と好きなので、結局それを口にはしなかった。

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