小説

『森の香りの人』小山ラム子(『檸檬』)

「こんな場所が近くにあるなんて贅沢だね」
「そう、なんですかね」
 おねえさんが芝生に腰を下ろしたのでその隣に座る。ここで足を止めたのなんていつ以来だろうか。小学生の頃なんかは兄弟で走り回っていたっけ。桜の季節には家族みんなでお弁当を食べたこともある。少し桜が散ってからは人もそれほど来なくなり、家族みんなでゆっくりと過ごすことができた。
「うちのお父さんはここでビール飲んだりしてましたよ」
「おお、いいねー」
「おねえさんも誰かと来ればここで飲めるじゃないですか」
「いや、だから別に飲むために持ち歩いてるわけじゃないって。それに今は色んな場所に行くようにしてるの。ここももうしばらくは来ないかな」
「そう、ですか」
 風はおだやかなままだ。見上げるとトンビが気持ちよさそうに空を泳いでいた。
 あ、今だ。
「あの、わたしにもお酒貸してもらえませんか」
「え?」
「あ、飲みませんから!」
「え、あ、いやーでも未成年にどうなのかな」
「わたしも閉じ込めておきたいんです!」
 おねえさんは困ったような顔をしながらも小瓶を取り出した。
「強いお酒だからこう、手をあおぐようにしてかいだほうがいいよ」
 自分は直接かいだくせに、なんて思ったがそりゃ慣れてるから当然か。受け取ってキャップを開けてから、薬品をかぐように手であおぐ。
「うわっ!」
 まさに薬品そのものみたいな香りであった。
「あーほら。子どもにはそんな幸せな香りじゃないでしょ」
「なんかこう、森の香りとかの入浴剤を煮詰めた感じでした」
「じゃあ薄めたのがいいかもね」
 微笑んでいるおねえさんに小瓶を返してから、鼻の奥につきぬけた香りの影を追う。
 でも薄めないこの香りの方が今の自分には合っているのかもしれない。
「わたしにはこれがちょうどいい森の香りだよ」
 おねえさんがそう言いながらもう一度小瓶のキャップを開いて香りをかぐ。
 今閉じ込めたのはなんだったのだろうか。
 おねえさんとはお互いに自己紹介もしないまま展望台でわかれた。そのまま坂道をくだって家につく。
 見下ろす景色はないけれど、それでも風はさわやかだった。

 それからあのおねえさんを公園で見かけることはなかった。
 わたしは二十歳になってからお酒を飲んでみたものの、そんなにおいしいとは感じずクラフトジンどころかサワーすら飲もうとは思わなかった。
 だけど今目の前にあるのは様々なクラフトジンである。有名どころを五本買ってきた。
 少しずつボトルのキャップにそそぎ、何かの儀式のように一列に並べる。
 今のわたしはあの頃のおねえさんと一緒の年齢だ。多分。お酒には強くなってないけれど、あの頃よりは耐性ができているはず。多分。
 最初の一つ。手であおがず一気にかぐ。
 薬品の香り。思わずせきこみながら、あの景色が浮かばないことを確認する。
 そもそもこの五本の中にあったら奇跡だ。たしかあのおねえさんは「ご当地もの」とも言っていた気がする。もしそれだったら確実にこの中にはない。
 それでも、と思いながら儀式を続ける。最後の一つ。
「あっ」

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