小説

『メタモルフォーゼ』N(えぬ)(『変身』)

 母親はベッドのすぐ脇の両開きの窓を開け放った。窓の外には広い麦畑があり、その向こうに森が広がっている。
 ベッドの上を歩き周っていた元邦子の虫は、恐らくきっと何か「人間的な意思」を持っているように見えた。彼女はベッド横に立つ父親と母親の前に向き直り立ち止まった。もしかしたら何かことばを発していたのかも知れない、何か文字を書き記そうという気があったのかも知れない。けれど出来なかった。
 やがて邦子虫は、スッと羽を広げ羽ばたいて飛び上がり、部屋の天井近く、電灯の回りを2周した。
それから邦子虫は窓の外へ飛び出した。朝日でキラリと緑の羽の光を見せながら森へと向かって自由を勝ち得た様にゆらゆらと飛んで行く。
 父親と母親は、せめて彼女が幸せに暮らすことを祈った。自分達の生き甲斐に力いっぱいに手を振った。
「寂しいことで」正子が二人の後ろでそう云った。
 遠く飛んで、もう邦子虫は見えなくなった。

 邦子は森の手前まで飛んで来た。どこの木に止まろうかと思ったとき、森の中から右から1羽、左から1羽、カラスが競い飛び立って一直線に邦子めがけて飛んで来ると、右のカラスが一瞬早く脚のかぎ爪で邦子虫の体をしっかりと掴み、そのまま羽ばたいて森の中へ飛び去った。
 森の中で、カラスの声が数回響いた。

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