小説

『あやかしシェアハウス』世原久子(『遠野物語 オクナイサマの田植』)

 パソコンの前に、誰かいる。
 たぶん女の子だ。切りそろえられたきれいな黒髪と、赤い着物から伸びる白くて小さな手。薄緑の洒落たデザインの帯。オフィスチェアに姿勢よく座り、キーボードをテンポよく叩いている。足が床に届いていないところを見ると小柄なようだ。
 あの子は一体誰だろう。私のパソコンでなにをしているのか。寝坊してデスクに駆けつけた葵はパニックに陥りながらも、どこか冷静にその後ろ姿を眺める。

 思えば最近は不可思議なことが続いていた。まだ対応していないはずの仕事がいつのまにか終わっていて、取引先や同僚からお礼の返信が届いている。おそるおそる内容を確認してみても問題がなく、おかげで残業時間が減った。そうかと思えば、畳の部屋に飾ってあるはずのこけしが妙なところに落ちている。パソコンを置いているデスクや、洗面所の隅、廊下など場所は様々だ。こけしなんて持ち歩くはずがないし、仕事を忘れるよりはよっぽどいいけれど、記憶にないのが始末に悪い。
 もしかして、そういう病気……? まだ30歳なのに? 
 若年性健忘症というワードが頭に思い浮かび、ぞわりと嫌な予感が胸をよぎるたびに打ち消した。昨年父親が亡くなってから2LDKのマンションで一人暮らしになったうえに、会社の方針で在宅勤務に切り替わり、人と話すことが格段に減っている。だから思考が窮屈になっているのだ。このマンションが無事に売れたら、適した広さの部屋に移ろう。そんな風に自分をなだめすかしながら、遺品の整理を細々と続けていたのだった。
 その日、葵にしては珍しく寝坊をした。かすかな物音で目を覚まし、カーテン越しの明るさから六時くらいかと察しをつけて時計に目をやると、とっくに就業時間の十時を過ぎていた。真っ白になった頭でカーテンをあける。重い雲が垂れ込めていて薄暗い。スマートフォンのアラームは、スヌーズを永遠に繰り返したらしく、停止ボタンを表示したまま止まっている。
 やってしまった……!
 顔を洗うことすらせず、かろうじて髪を乱暴にとかしてからリビングに向かう。まずは上司に謝って、それから朝の会議の内容を教えてもらわなきゃ。たしか午前中は取引先との会議はなかったはず。それだけが救いだ。対処しなければならないことを雪崩のように考えながらリビングに入ったところで、見知らぬ女の子の姿に葵の思考は再停止した。
 「すいません……、どなたですか?」
 あの子はいったいどこから来たのか、なにが目的なのか、そういうことも気になるけれどまずは仕事が大丈夫なのか確認しなきゃ。そう思って声を振り絞ると、ぴたりと女の子の手が停まった。数秒たってから静かにこちらを振り向く。葵の想像通り、まだ小学生くらいの子だった。つぶらな澄んだ目でこちらをじっと見つめている。

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