小説

『机の裏の銀河』柿沼雅美(『片すみにかがむ死の影』)

 仕事はしているけれど、仮にこれを猫がタイピングしていたとしても内容が合っていればそれでいいわけだし、掃除機をかけたり洗濯をして乾かすということも機械がやればいいわけだし、下手したらAIなんかが何か考えはじめて部屋の隅は私がやるよりも埃が取れるかもしれない。衿の詰まった上品なワンピースを買っても、それはもっとスタイルがよくて美人な人が着たら一層良いのだろうし。ファンデーションはニキビ肌よりもシルク肌に載せられたほうが本領発揮できるのだろうし。世の中の全てのものが私でなくて良いものばかりだし、むしろ私でないほうが良いとされるものばかりなのだ。そしてそれは自分が自覚するよりも早く世間があっさりと自分の存在を消していく。
 出勤をせず、友人と飲みにいくこともなく、旅行は制限され、気兼ねなく共に生活をするのは家族や恋人だけになる。家族と同居していない、恋人のいない、もっと言えば仕事を辞めざるを得なくなった人は、もう、ひっそりと死んでいくのではないだろうか。そして、自分が死んでしまう、と恐れるよりも前に、世間はあっさりとその人物を忘れている。そしてその道を私も類にもれず進み始めている。
 ピロピロピロン、と陽気な着信メロディーが響き、乱暴に意識を引き戻されたような感覚になる。
 見ると、係長の名前が表示されていた。あー、と一瞬迷う。昭和を引きずりまわしたような社内で、女性としては珍しく順調に昇進を重ねている先輩だ。正しいことを言うのだけれど、それがいつも正しすぎて私には太刀打ちができない。仕事を一生懸命して、結婚をして、出産をして、仕事復帰をする。これが社会人女性のロールモデルよ!というオーラに、私はいつも泣きたくなってしまう。
 おつかれさまです、と電話に出ると、あーもうやっとでた! としびれをきらされた。すみません、と返すと、仕事に集中してるのだろうからいいわ、と全く見当違いな受け取り方をした。
 まぁはい、と私が言い終わる前に、酒井さんのズーム止めさせて! と食い気味に言う。は? と思っていると、いいから早く彼女に連絡を取ってズームの電源を切るように言って! 焦っているのか声がうわずっている。
 なんですか? と聞き返すと、酒井えみりさんと仲が良いのはあなたくらいしか分からなかったのよ! 先輩から連絡をすればいいじゃないですか、と言いたいのを堪えて、ねんですか? とまた聞いてみる。
 会議後に画面が繋ぎっぱなしになってるのよ! とうわずったまま言う先輩に、何か問題なんですかと聞くと、ハローキティと会話をしている、と真面目に言った。思わず笑いが漏れる。笑いごとじゃなくて、部署のみんなが黙って面白がって聞いてるのよ! 早く本人にやめるように言って! こんな部下がいるなんて恥ずかしくてしょうがないわよ! と、まるで私が原因かのように怒り出す。
 めんどくさすぎる、と思いながら、えみりんごならハローキティとしゃべっていても違和感ないな、と感じた。キティさんは仕事を選ばないし、キャラクターなのに他のキャラクターの被り物もするし、出来る人なんですよ、と熱弁していたことがあった。

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