小説

『天国の午後』山本信行(『蜘蛛の糸』)

 この辺りは、ほんわかとしたやわらかい光と空気に包まれています。立って歩いていても、なんとも云えない柔らかな感覚の足元、これが天国ということなのでしょう。
本当に信じられないほどに清浄で透明な水をたたえた池が点在し、その畔にはいつも緑の葉を茂らせた立派な木が一本生えています。どんな者でもこの空間にいれば心穏やかに自然と幸福を感じられるでしょう。と云いますか、この空間では、このありように絶対に幸福を感じるのです。ほかの何らの出来事も無いし、何も変わったことは起きはしないのです。ただただ、この空間にいることで心が満たされるのです。もっといえば実際にはこのような景色も必要ありません。どうあってもここに到達できさえすれば、それはもう心の中に幸福が感じられることが間違いない場所なのです。そのような不思議な空気を持っているのがここ天国。そして白い布を体に巻き、腰の辺りでそれを荒縄で縛っている細身の、人間で云えば中年男性。それがこの天国に住む神様です。神様はこの空間で深い物思いに耽りながら散歩に明け暮れるのが日常です。
 あるとき神様は散歩の途中、点在する池の一つに立ち寄りその底から下を覗きました。その池の底はこれもまた透明で下界がよく見えます。ずっとずっと下の、これ以上無い行き止まりにあるのが地獄です。地獄では多くの罪人(つみびと)たちが責め苦に喘いで蠢いています。彼らは人間の生涯において嘆かわしい行いをし、地獄へ落とされた者たちです。彼ら一人一人は小さな一人に過ぎない者ですが、その集積された地獄のありようは、神様はその光景をこうして天上から見るたび罪人の哀れに心を痛めます。そして今日は、池の底から見える所で気紛れに思い立って一匹の蜘蛛を呼び寄せました。
「おまえ、この池の畔からあの地獄へ糸を一筋、垂らしてみなさい」
 そう神様がおっしゃいましたから、蜘蛛は云われるままに池の畔から下へ糸をスルスルと降ろしていきます。糸はしばらくして地獄に到達しました。すると神様は、
「そう。あの男がよいな」
 選ばれた男は、神田某という名で、もう遠い昔の戦国の世に人として生を受けていた者です。元は最下級の武士で、いささか気が弱くお人好しなところもあって戦の前線から離れたところで仕事をしていましたが、兵の数が不足してついに戦いに駆り出され人を殺し地獄に落ちた者でした。かれこれ数百年は地獄にいるのです。
「そうそう。あの男の前に糸を垂らしてやるがいい」
 地獄のその男は、今は血の池地獄にいました。彼は日々を針の山で刺し貫かれ、猛火で炙られと永年の責め苦に遭っている者でした。その彼が血の池から少しばかり顔を上げた時、目の前に蜘蛛の糸が垂れて来ました。この光の乏しい一面薄暗がりの陰鬱とした世界で蜘蛛の糸は自ら輝いて宝石のようでさえありました。始めはそれが神田某にはなんなのか分かりませんでしたが、目の前に垂れた糸をそっと手に取って軽く引いてみると上空高くまで続いているのが分かりました。

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