小説

『天国の午後』山本信行(『蜘蛛の糸』)

「これは登れるのだろうか。登れるとしたら、この地獄か抜け出せるのかも知れぬ」
 彼は地獄で初めて希望というものを感じました。そして力が湧いて、糸をたぐり寄せて懸命に登り始めました。
始めは湧いた希望に押されて一心不乱に登って行きましたから疲れも感じませんでしたが、しばらく登るうちに少しずつ不安に襲われました。上をいくら見ても暗いばかりで光は見えませんし、下を見ればこれもまた地獄の暗闇が広がっているだけです。
「上に進めば天国なのか。だがその確証も無い。落ちればまた地獄が待っているのは当然だろう。なんとも……」
 登って来たはいいが、そう思うと進むことにも疲れ果て、落ちて戻る不安にさいなまれることになりました。彼はそれから、少し進んでは休み進んでは休みと繰り返しながら登って行きました。
「ああ、生きていたときにはこんなとき、母が励ましてくれたろう。戦っていたときなら同僚たちが励ましてくれたろう。ここでは誰も声一つ掛けてくれない」
 糸に賭けた希望は酷い疲れにかき消されて、そんな神田某はそれでも、ここまで来たからにはと糸を登り続けました。
 彼はずっと上ばかりに目を懲らして登っていましたが、しばらくして何やら気配を感じ足元の方を見やりました。
「あぁ……」
 彼の足の下の方に、彼同様の地獄から糸を登って来た罪人が幾人も薄暗い中に数珠のように連なっているのが見えました。
「このままだと、追い抜かれるな」
 そう思いながらも彼の腕も足も、疲れ果てて思うようには動きません。ちびりちびりと登っていくしか方法が無いと観念しながら、
「この細い糸は、こんな人をぶら下げて、切れてしまいはしないだろうか。せっかくここまで登って来たというのに、ここで切れてしまったら……」
 彼にはまたこのような不安が一つ加わりました。その不安に押されて、少し力を出して僅かに登るのが速くなりましたが、それも焼け石に水でした。あれよという間に、後から来た者に足を掴まれ体を掴まれ、「ええい、じゃまな」と邪険にされ、体を足場にされて踏みつけられて見る間に追い抜かれてしまいました。
「はぁ……、追い抜かれてしまった」
 神田某は溜息をつきました。悲しみが少し湧きました。
「じゃが、思い返せばこれもわしの人生じゃな。そうそう、わしの人生はいつもこんなものじゃった」
 彼は実際の所、地獄へ落ちる原因になった戦(いくさ)での人殺しも、周囲のほかの者たちと駆り出されて参加したので、その自分の罪が理解できていませんでした。そのころ、その時代は、みんなそうしていたのですから。彼は、漠然とただ流されて生きていた一人だったのです。そして自分もいつか敵に打たれて命を落とし地獄へとやって来ましたが。彼にとっては、戦に参加するのもそれが元で地獄に落ちて苦しむのも、「そういうものなのだろう」という浅い感慨しか無かったのです。ですから今、この蜘蛛の糸にすがって登って来たのも、力のある者に後から追い抜かれて邪険にされて踏みつけられるのも、「そういうもの」ということと理解したのです。

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