小説

『夜空の月』吉岡幸一(『かぐや姫』)

「お母さんにこっちに来てもらえばいいんじゃないか。そうすれば姫子が田舎に帰らなくてもいいんだし」
 和也は返された薔薇の花束を下にむけて持ちました。花びらが地面に着きそうです。
「家も畑もあるし、向こうには友達だっているんだからお母さんが来るわけないわ。都会の生活になんかに馴染めるわけないから」
「ときどき田舎に帰ってあげるだけじゃ駄目なのかい」
「中途半端は嫌なの。最初はそれでよくてもいずれ帰らなくてはいけなくなると思うの。だから結婚する前の今が一番いいのよ」
「だったら僕もお母さんのいる田舎にいくよ。それなら結婚だってできるし、お母さんと一緒に暮らしたっていいんだから」
 和也は苦しそうに言いました。明らかに無理をして言っているのが姫子にもわかります。
「やりがいのある仕事なんでしょう。田舎には和也さんのやりたい医療機器の開発ができる仕事なんてないわよ。大勢の人に役立つ機器を開発したいって言っていたじゃないの。夢を諦めるつもりなの」
「そうしないと結婚できないじゃないか」
「そんな想いまでして結婚なんてしなくてもいい。きっと和也さんの夢を応援してあげられる人が現れるから。私のことなんて忘れてください」
「そんなこと言うなよ」
「ごめんなさい……」
 今度は姫子が謝りました。
 やわらかな風が姫子の長い髪を撫でていきます。マンションの窓に灯る明かりが夜空を照らし、まるい月を淡く見せています。野良猫が二匹、欅の街路樹のすき間を縫うように駆けていきます。
 ふたりは一年前に新聞社主催の絵画スクールで知り合いました。ふたりとも絵が趣味で年齢も同じということもあり、通っていくうちに惹かれあっていったのでした。何度か一緒に美術館に行くうちに自然に付き合うようになりました。
 姫子がプロポーズされたのは半年前、和也の誕生日の日でした。今日と同じようにレストランに行き、バーに寄って、この場所でプロポーズをされ、薔薇の花束を渡されたのでした。
 偶然ではありません。かといってこの場所を選んだのでもありませんでした。ふたりとも心に思っていることをなかなか口に出すことができないタイプでした。ですから、マンションの前にくるまで言えずにいただけなのです。プロポーズと別れの話が同じ場所になったのは必然と言っていいのかもしれません。
「別れなくてもいい方法があるんじゃないか。諦めないで一緒に考えようよ」
 和也はいまにも泣き出しそうな姫子の肩に手を置いて言いました。

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