小説

『夜空の月』吉岡幸一(『かぐや姫』)

「ごめんなさい。和也さんとは結婚できません」
 一度は受け取った誕生日プレゼントの薔薇の花束を返しながら、姫子は頭をさげました。
「まって、いきなりどうしたんだい」
 和也が驚くのも無理がありません。ふたりは来年の春には結婚式をあげる予定でいたからです。これまで喧嘩をしたこともなく、結婚のことで揉めたこともありませんでした。
 言った姫子にしてもこの夏が終わるまでは迷ったこともありませんでした。結婚の取りやめを考えはじめたのは、夏のお盆休暇に田舎に帰ってからでした。考えに考えた末、今日一日言おうとして言うことができず、このタイミングになってしまったのでした。
「田舎に帰ってお母さんの面倒をみようと思うの。お父さんが亡くなってから元気がないし、身体の調子だってよくないみたいだから」
「お盆に会ったとき、お母さん元気そうだったけど……」
「元気そうに振る舞っていただけよ」
「でも、まだ介護を受けるような状態でもないんだろう」
「そうなる前に帰っていてあげたいの」
 姫子は花束を返した後で、傷みを堪えるようにもう一度深々と頭をさげました。
 この日は姫子の二十五回目の誕生日でした。レストランで食事をした後、バーで軽く酒を飲み、和也にマンションの前まで送ってもらったところでした。
「僕のことが嫌いになったんなら、はっきりそう言ってくれ。ほかに好きな男でもできたのか」
「そんなわけないでしょう。私はそんなに軽い女じゃないから」
「ごめん……」
 心にも無いことを言ったことを和也は素直に謝りました。
 初秋のまるい月が空の真上にのぼり、ふたりの頭上をやわらかく照らしています。夏の暑さが消えきれずに残ってはいましたが、頬をかすめていく風は秋の涼しさを含んでいました。
 都会の住宅街ということもあって、周りのほとんどは二十五階建て以上の背の高いマンションばかりでした。夜も十時を過ぎようとしていましたが、人通りが途切れることはなく、マンションの入り口前の階段下に立つふたりの前を幾人もの仕事帰りの会社員たちが通り過ぎていきました。だれもふたりのことなど見向きもしません。気にすることもなく家路へと帰っている人ばかりでした。

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