小説

『ある海と蝋燭の幻想』酔春(『赤い蝋燭と人魚』)

 足元から響く波音が大きくなってきた。風も強くなった気がする。海面に映る月明かりの線は途切れがちになり、雲が時折月光を遮る。
 ポケットに手を入れると、つるりとした塊に手が触れた。取り出して手のひらにのせてみる。
 蝋燭だ。宿で見つけて、なんとなくポケットに入れてしまったものだ。月明かりの下、黒い海を背景に、そのうすぼんやりとした白い塊はどうにもおさまりが悪いように思えた。
 私は蝋燭を指でつまんで眺めながら、彼女にもらった蝋燭の模様を思い出そうとしてみた。
 私は別に、彼女に会えると思ってこの町に来たわけじゃない。そんな都合のいいおとぎ話を信じられるほど子供ではないから。私はただ、偶然思い出された、古い、けれど大切な記憶を、また月日の経過の中に埋もれさせられなかっただけだ。
 短くなった煙草の火をテトラポットに押し付けて消し、新しい煙草をくわえる。ライターを探してポケットに入れた指先にかたいものが触れた。私はふとあることを思いついて、今手に触れたもの——口紅を取り出す。
 私は口紅の先で、蝋燭の白い腹に触れてみた。それは思ったより滑らかに、頼りない白色の上に赤い線を残した。私はその上にさらに、二本、三本と線を重ねる。
 蝋燭に絵を描きながら、私は遠い昔に聞いた人魚の物語を思い返していた。
 私の中で、人魚の姿は彼女の横顔と重なっていた。月明かりの下で憂うように海を眺める横顔だ。それはとてもきれいな光景で、呪いや憎しみなどと結びつけられるものではない。
 思うに、物語の中の人魚だって、実は誰も憎んでなんていなかったんじゃないだろうか。ただかつて一緒に暮らし、大切に思っていたであろう人たちに、再び会いたかっただけなんじゃないか。そしてきっと、海へ消えた人々は、ただ人魚とともに生きることを選んだんだろう。幼い私が蝋燭を携え、あるはずのない月明かりの下を彼女のもとへと急いだように。そして今、大人になった私がかつての記憶に誘われ、この町へとたどり着いたように。
 蝋燭に模様を描き終わると、私はライターを取り出し、蝋燭に火をつけた。オレンジ色の明かりがともり、ちろちろと揺れる。私が蝋燭に描いた模様は、ほとんど線がつぶれていて、これではただ赤く塗った蝋燭みたいだ。
 月はすっかり雲の後ろに隠れていた。暗闇の中では、蝋燭の頼りなさげな炎だけが唯一の明かりだ。もし海から眺めれば、このかすかな明かりが揺れるさまが見えるのだろうか。
 私は煙草をくわえなおし、蝋燭の炎で火をつけた。吐き出した煙は冬の空気の中に溶けてゆく。
 もし、私が今ここにいることが人魚の呪いだというなら、それでもかまわない。海に引きずり込まれてもいいとさえ思っている。それでもし、彼女に会えるというのなら。
 ああ、そうか。
 私は彼女に会いたいのだ。
 私の中で、幼いころの私が激しく脊髄を揺さぶり、叫んでいる。きっと私はそれほどまでに彼女に、彼女の虹色の瞳に魅入られていたんだろう。
 ふいに激しい波音が響いた。テトラポットの隙間からひどく大きな波が吹きあがり、私の全身に襲い掛かった。炎が消え、凍るような海水と暗闇の中に放り込まれた刹那、私は、確かに虹色に揺らめく瞳を見たのだ。

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