小説

『ある海と蝋燭の幻想』酔春(『赤い蝋燭と人魚』)

「私、もうすぐいなくなるの。だからあなたとも会えなくなる」
 私の目の前で、開かれていた扉が音を立てて閉まったような気がした。彼女がいなくなれば私はまた世界と関わるすべを失ってしまう。海は恐ろしいものに変わり、虹色に輝くあの光景は永遠に失われてしまうだろう!
 泣き出した私の頭を、困ったような顔をした彼女が撫でた。夕焼けを映した瞳はいつにもましてきれいで、そして確かに、どこか遠い所への郷愁が浮かんでいるような気がした。
 しばらく私の頭をなでていた彼女は、不意に私の手に小さな塊を握らせてくれた。
 それは蝋燭だった。
 ただの白い蝋燭じゃなくて、表面には赤い模様がびっしりと描かれていた。よくみるとそれは貝や、魚や、海草の美しい細密画なのだ。
「私が描いたんだ。持っていれば、きっとまた会えるよ」
 私はその蝋燭を大事に持って帰り、布団の中でも握りしめていた。
 月が明るい夜だった。私は彼女が、夜の闇の中にとけて消えてしまうような気がした。
 それで両親が寝静まった後に家を抜け出したのだ。もらった蝋燭に火をともし、その光と月明かりを頼りにして彼女のもとに向かった。
 彼女は、そこにいた。いつものように上半身を乗り出し、月光にその横顔をさらしていた。青白い光が輪郭を縁取っていて、海風に交じって妙に甘ったるい水のにおいがした。
 気づいた彼女は、私をまっすぐに見つめた。月明かりの下、何もかも青い世界で、彼女の両の瞳が虹色に輝いていたのだ。
「ああ、もう来ちゃったんだ」
 それから後のことはよく覚えていない。
 なんとなく、ふわふわして、ひんやりとしていて、このままずっと浸っていたい、漂っていたいと感じた記憶だけがある。
 気が付くと朝で、私は自分の布団で眠っていた。開けたはずの扉の鍵は閉じていて、蝋燭はどこにもなくなっていた。けれどなぜか、髪の毛だけがひどく湿っていた。
 両親が「昨夜はひどい嵐だったね」と話しているのを聞いた。
 私は家を飛び出して彼女のもとへ向かった。けれど、いつもはいるはずの彼女の姿はどこにも見当たらず、それどころか人のいた形跡すらなかったのだ。
 私は呆然と立ち尽くした。海は黒々としていて、コンクリートの塊みたいに見えたのを覚えている。

 
 それがどれくらい前のことかはよく覚えていない。本当のことかもわからないし、もしかしたら全部幼い私が作り上げたファンタジーなのかもしれない。
 その後私は海を怖がることも、美しい海に目を奪われることもなかった。そのうち海から離れた大きな街に引っ越して、海のことも、彼女のこともだんだんと忘れてしまっていた。
 今目の前にある海があの時の海と同じかどうか、確信は持てない。この町の名前だって、切れかけの記憶の糸を慎重にたぐり寄せて、やっと思い出したというのだから。

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