小説

『ある海と蝋燭の幻想』酔春(『赤い蝋燭と人魚』)

 そんな私がその日、どうして外に出ていたかは覚えていない。たぶんお使いかなにかの帰りだったんだと思う。家へと続く道は海に沿っていて、私はそこを通るのが嫌で嫌でたまらなかったけど、通らないことには帰れないから仕方なく海のほうを見ないように足早に歩いていた。
 海のほうを向かないようにすると、道に沿って並ぶ家々が目に入る。私の目の前をいろんな形をした家が通り過ぎて行った。その視界の中に突然人の姿が現れて、私はびっくりして立ち止ってしまった。
 その女性は窓を開けて、上半身を乗り出していた。きっと海を見ていたのだろう。
 私は彼女を見つめたまま固まっていた。彼女の目は妙に透き通っていて、虹色の光をたたえているような気がした。私は背後に広がる海のことなど忘れ、その瞳に見入った。
 唐突に彼女がほほえみを浮かべ、「おいで」というふうに手招きした。私はおずおずと彼女のそばに近寄った。かすかに磯のにおいがした気がする。近くで見る彼女の瞳はさらに綺麗で、私はその虹色の輝きに魅入られていた。
「何をそんなに見ているの」と彼女は言った。
 私はなんだか恥ずかしくなってしまって、慌てて目をそらし、すごくきれいな目だったから……、と口の中でつぶやいた。
 彼女は嬉しそうに笑って言った。
「海が映ってるからね。ほら」
 そして彼女は私の肩を引き寄せ、くるりと反対を向かせた。私の視界には、ずっと目を背けていた海が飛び込んできたのだ。
 しかし私は一瞬それを海だと理解できなかった。見えたのは一面に広がる虹色だった。私はまぶしくて目を細めた。
 傾き始めた太陽が波間に反射して、きらきらと虹色に輝いていたのだ。それは私の思う呪いと憎しみに満ちた暗い海とは全く違って、思わず息をのんだ。自分がどれほど海を怖がっていたかも忘れてしまったほどだ。
 それから私はよく彼女のもとへ遊びにいくようになった。そして、前ほど海を怖がらなくなった。確かに荒い波や、覗き込んだ時の底が見えないさまは恐ろしかったけれど、同じくらい美しい面もあると知ったから。外に出るようになった私に父も母も驚き、喜んでくれた。
 私が会いに行くと、彼女はいつも窓枠に腕を載せて海を眺めていた。初めて見たときと全く同じ格好。だから私の記憶にあるのは、潮風に流される細い髪と、まぶしそうに目を細める横顔ばかり。
 私に気がつくと、彼女は、お、という風に眉を上げて手招きをする。そして、美しい貝殻やサンゴのかけらを見せてくれたり、私が想像もしなかった海の底の世界について話してくれたり、遠い異国の歌を教えてくれたりするのだ。彼女と一緒に見る海はいつもきれいで、まるで恐ろしさなんて感じなかった。
 彼女は海のことならなんでも知っていた。そう、まるで本当の人魚みたいに。私は窓枠の後ろには、魚のような尾ひれが隠れているんじゃないかって思ったこともある。
 海におびえ、閉じこもっていた私の狭い世界は、彼女によって開かれたのだ。彼女との交流の場であったあの窓は、まさに私にとっては、世界への入り口の窓だった。
 だからその言葉にどれほど絶望したことか。

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