小説

『ある海と蝋燭の幻想』酔春(『赤い蝋燭と人魚』)

 海が黒い、というのが、この町で最初に思ったことだ。
 北の海は冷たく、暗く、のぞき込んでも底がまるで見えない。私にとっては見慣れない光景のはずだけれど、恐ろしさは感じなかった。むしろ、妙に落ち着いた気持ちさえになる。それはやはり、幼い少女だったころの私がこの光景を知っているからだろうか。
 それでもこの、黒い海が危ないことは間違いないらしい。さっきも泊まっている宿の主人に「夜の海に近づくんじゃないよ」と釘を刺されたばかり。
 けれど、いや、だからこそ、私は冷たいテトラポットに腰かけて、海面に映る月明かりの線がゆらゆらと揺れるのを眺めている。冬の海にしては珍しく、風も波もほとんどない。それでも北国の冬は残酷な寒さで私の肌をきりきりと痛めつけ、内臓を震えさせる。帽子もマフラーもしっかり着込んでいるのに、少しも温かくならない。
 足元のコンクリートの隙間からは時折、どぷん、というような音が聞こえてくる。波音が反響しているんだろうけど、まるで巨大な生き物の体内にいるような気持ちになる。
 私は震える手で煙草を取り出し、火をつけた。煙を吸い込むと少し寒さが和らいだ気がして、ほっと息をつく。
 こんなところまで来る必要があったかはわからない。仕事も生活もすべて放り出して、半ば衝動的にこの町にたどり着いたけれど、この黒々とした海を眺めていると、孤独とともにどうしようもない不安感が襲ってくる。私がここにいることなんて、まるっきり無駄なことなんじゃないか、と。
 でも私はこの町に来ないといけなかった。そうしないと、刹那的に浮かび上がってきた記憶の糸を取り逃がしてしまいそうだったから。あるいは私のこの衝動も、全部人魚の呪いのせいなのかもしれないけれど。

 
 かつて人魚と友達だった、なんて、一体だれが信じるだろう。
 私自身、そんな記憶が自分の中にあることすらまるで覚えていなかった。けれどある日の仕事帰り、どこからか甘い水のにおいがして、その瞬間にすべてが稲妻のようによみがえってきた。記憶の中で、私はまだ幼い少女だった。そして、彼女は確かに、私にとっては人魚だったのだ。
 私が育ったのは海のそばで、窓からは白い波を泡立てる海が見えたし、静かな夜に布団の中で目を閉じていると、遠くから海の音が聞こえたのを覚えている。
 それほど海となじみ深く暮らしていたのに、私は海が恐ろしくて仕方なかった。それは、ある物語を聞いたせいだ。
 昔、人間に育てられた人魚がいたが、育ての親が彼女を売ってしまった。売られた人魚は人間を呪い、人々は呪いによって海に引きずり込まれ、皆おぼれ死んでしまった。
 確かそんな話。
 子供心にその物語はあまりに救いがなくて、私は泣いた。それ以来、私には、海が憎しみに満ち、私を飲み込もうとしているように見えた。なるべく窓の外を見ないように、波の音を聞かないようにした。家から出ず自分の部屋に閉じこもっていたから、友達なんて一人もできなかった。

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