小説

『腹ノ池』間詰ちひろ(『頭山』)

 何度か竿を振るっているうちに、針にコツンと何かが当たる感触があった。魚が食いついてきた! 胸を打ち付ける興奮を抑えながら、慎重にリールを巻く。しかし、針の掛かりが弱かったのか、魚の抵抗がするりと消え、手元には何もかかっていないルアーだけが帰ってきた。
「くそっ」蓮沼は、バラしてしまった悔しさを抑えることができない。しかし、この水溜りに何かしらの生物が住んでいることがわかった。それだけでも良しとしようと、再度竿を振り、針を水中へと沈めた。
 グイッと体ごと引っ張られるような強い引きがあった。
「こいつはかなりの大物だ」
ぐっと重い手応えは、さっき掛かった獲物とは、比べ物にならない。体が水面に引き摺り込まれそうだ。じっくり時間をかけて、相手が弱るのを待つしかない。蓮沼は身体全部に踏ん張りを効かせ、水中にいる獲物と対峙するよりほかなかった。

「益男くん! ねえ、目を覚まして!」
 病院の待合室で、鵜飼あゆ子はパニックになりながらも蓮沼の名前を叫んでいた。「落ち着いてください」看護師が数名がかりで、蓮沼の体を担架に乗せる。
「身内の方に、ご連絡は付きますか?」あゆ子は、ぎゅっと食いしばり、小さく頷いた。その言葉が意味していることを、理解したくはない。けれど、あゆ子にできることは、蓮沼の両親に連絡をし、蓮沼の意識が戻ってくるのを祈る以外には何もできなかった。
 あゆ子は、ずいぶん前から蓮沼の体調が悪いのではないかと心配していた。蓮沼のことは、子供のころからずっと見てきたのだ。多分、誰よりもずっと。蓮沼自身にも「心配だから病院行こうよ」となんども進言した。けれど、蓮沼は首を縦に振ってはくれなかった。
「病院で検査して、治療して。何かしらの病気が見つかるかも知れねえけど。その病気に時間を割くぐらいなら、死ぬ瞬間まで釣りをしてたいんだよ、俺は」冗談を言うそぶりでもない蓮沼の態度を見るたびに、あゆ子は自分の言葉が届かないことを悔やんでいた。もっと早い時期に、無理やり連れてこれば良かったと思う反面、それを蓮沼が望んでいないこともあゆ子は分かっていた。
 蓮沼は、待合室で座っている少しの間に、気を失ってしまった。蓮沼の身体は病気に侵されてはいたが、この数分の間に急激に病気が進んだように医師達は感じていた。何が原因かはわからないが、直ちに処置を施すよりほかなかった。ただ、医師の経験からすると、施せる処置はもうあまりないかも知れないということも感じていた。

 蓮沼はじりじりと、足元から水中に引きずり込まれていた。

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