小説

『腹ノ池』間詰ちひろ(『頭山』)

「こんなに大物とやりあうなら、こんな軽そうじゃなくて水に濡れてもいいように、胴長着てくりゃよかったな」蓮沼はほんの少し後悔しながらも、竿を持つ手の力を緩めることはなかった。こんな大物、ここで逃すわけにはいかない。ただ、身体ごと水中に引きずり込まれてしまうと、釣り上げるどころか、溺れてしまいかねない。困ったなと思いながらも、蓮沼はかかった獲物の姿をどうしてもひとめ見たくて竿を持つ手を緩めることができずにいた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。蓮沼の身体は、もう胸のあたりまで水の中引きずり込まれている。にじりじりと対峙し、蓮沼の力はほとんど残されていない。それでもたったひとめでもその獲物に会ってみたいという気力だけが、蓮沼を動かし続けていた。
 不意に獲物の力が緩んだ。次の瞬間、大きな影が、宙に浮かんだ。獲物が水中から跳ねたのだ。大きな体をくねらせながら、蓮沼の視界を遮るほどの大きな魚の姿が見えた。蓮沼は自分がこれまでに釣り上げた様々な魚を思い巡らせていた。思い出す魚のそばには、嬉しそうに笑うあゆ子の姿があった。
 飛び跳ねた大きな魚は、鈍色の鱗をまとい、ぎらりと光を放っていた。蓮沼はぽかんと口を開け、跳ねた魚に見惚れていた。竿を持つ力が緩んだことでバランスを崩し、蓮沼の身体は水に沈んでしまった。蓮沼の身体が浮かび上がることはなく、大きな魚が飛び跳ねることも二度となかった。

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