小説

『黄昏を笑う』高平九(『死神』)

 目を瞑って眠ったふりをすると、家族は黙って帰って行った。もう二度と会えないだろうと良子は思った。
 力をふりしぼって窓の方に首を回した。
 ああ。やっぱり海が見たかったなあ。
 そのとき夏の空がすいと翳り、ふいに黄昏になる。ありふれた黄昏。でも美しい。なぜか笑いが込み上げてきた。あたしこんな時に笑ってる。バカみたい。
誰かが部屋に入ってくる気配がした。もう首をめぐらす力も残っていない。
「良子さん」
 男の低く優しい声が名を呼んだ。聞き覚えのない声だ。
「もう逢いたい人はいませんね。そろそろいいですか」
 そうか。あなたが男達を呼んでくれたのね。ねえ。最後に俊太郎を呼んでくださらない。ひとつ聞いておきたいことがあるの。あたし、あの子を傷つけるようなことを言ったみたいなんです。やっぱりそれを聞いてひと言詫びないと。
「残念ですが、それは出来ません」
 そんな。さっきまでここにいたんですよ。携帯電話で呼び戻してくださいよ。番号が分からなければ荷物の中にある電話を使ってくださいな。
「それは無理です」
 なんでそんな意地悪を言うのよ。そうか。バッテリーが切れてるのね。それなら充電器も一緒に入れてあります。それで……。 
「いえ。そういうことでは……。実は、さっきのご家族はあなたの妄想なのです」
 何をおっしゃってるの? 家族が妄想ですって。俊太郎も嫁の美佐子さん、それに孫の雄太と玲香も。そんなことあるはずない。まだ小指には玲香と指切りした感触がくっきりと残っているもの。
「俊太郎さんとご家族はあなたが入院してから一度も見舞いに来ていません。もちろん入院費は払ってくれているし、どなたも幸せに暮らしています。あなたはいつも言っていたでしょう。子どもには子どもの生活がある。それを第一に考えてね。それがあたしの幸せなんだから、と」
 だって、それは本音じゃない。
「分かっています。しかし、そう言ってくださったお陰で俊太郎さん達は幸せに暮らしているのです。大丈夫。たとえあなたに傷つけられたことがあったとしても、そんな傷、あなたがいなくなれば俊太郎さんの中からすっかり消えてしまいますよ」
 ほんとにそれでいいの?
「それでいいのです」
 ねえ、あなたは誰?
「僕ですか? あなたの恋人の1人……と言いたいところですが、もうお分かりでしょう?」
ええ。うちの人はあなたが出て来る落語が大好きだったわ。ねえ。アジャラカモクレン、セキグンハ、テケレッツノ、パと唱えて、ポンポンと2つ手を叩いたら、本当にいなくなる?

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