小説

『にゃーちゃんのこと、またはそれらを巡る記憶などについてのあれこれ』ノリ・ケンゾウ(『玩具』太宰治)

 赤ん坊のころのことを、オサムはよく憶えているのだという。一歳から三歳くらいまでの記憶なら、ほとんど鮮明に、思い起すことができるとも言っている。試しに当時の流行っていた音楽や、芸能人のことなどを聞くと、すらすらと答えてみせる。当時のニュースなんかもよく憶えているようだし、活躍したスポーツ選手のことでもなんでも、オサムはわたしに向って自慢気に話すのである。わたしはオサムの話を聞きながら、一歳のころを思い返そうとしてみるが、まったく何も思い出せない。もちろん二歳でも三歳でも、それはまったく一緒、すべてきれいさっぱり忘れてしまっている。わたしは憶えてないな、というと、オサムは、まあ普通はそうだろう、僕は早熟だったからね、と言った。早熟という言葉が適しているかどうかは分からないが、私は、ふーん、と答えながら、その実オサムの話には全然興味が湧いてこない。めちゃめちゃ胡散臭いし、というかもう、普通に嘘だろうと思う。さすがに一歳やら二歳やらで、テレビのニュースとか、スポーツとか、見たって理解できるわけないし。まあでももしかしたら、今まで生きてきた中で見聞きしたことなどを統合する形で? 本人だけは本当に自分が記憶していると信じ込んでいる、とかはあるかもしれない。とはいってもそれは記憶しているとは別で、思い込みだから。でもその辺も正直私はどうでもいい。どうでもいいし、そこまでオサムが憶えているというのであれば、別に憶えているということにしてあげていてもいいとも思う。否定する必要はない。別にわたしはそれで何にも困らない。オサムはべらべらと一歳のころに遊んでいたおもちゃはこれこれで、二歳はこれ、三歳になったらこれだったんだ、と当時の遊び方とか、思っていたことをわたしに教えてくる。自分は、ぬいぐるみや、だるまなんかと会話をすることができたんだ、とかなんとか言っている。ぬいぐるみとお話しするなんて、かわいいところもあったんだね、というと、オサムは否定する。別にかわいくもなんともない、少しひねくれていたんだ、大人たちに何か言わされて言葉を使うのが嫌だった、だったらぬいぐるみと僕との間だけで通じる言語で会話をしようと思ったんだ、と言った。なんだそれ、と思ったけど、わたしはわたしで、オサムの会話を話半分で聞きながら、小さい頃に祖母に買ってもらった猫のぬいぐるみのことを思い出してみたりしている。今でも大事にしているぬいぐるみ。でも久しぶりに思い出した。名前は、にゃーちゃん。にゃーちゃん? そう、にゃーちゃん。祖母にもらったプレゼントの紙袋の中から、にゃーちゃんが出てくる。かわいいー、と頬をすりすりすると、柔らかい毛が心地よい、まるで本物のねこみたいだと喜ぶ。喜んだわたしの顔が、頭に浮かんでくる。あれ、でもこの記憶だと、わたしがわたしのことを見ていることになるか。え、何が? いや、なんでもないけど。でもたしかにあのとき、わたしは祖母のプレゼントに喜んで、頬をぬいぐるみにすりすりと擦りつけた思い出がある……気がする……。でも頭の中に鮮明に残るわたしの表情は、誰が見たものなんだろう。鏡? いや、違うか。わたしじゃない誰かが、わたしを見ていたはず。誰かっていうか、まあ祖母とか母だと思うけど。ねえオサム、記憶ってさ、誰かと共有できるものだったりとか、するのかな。と聞くと、共有? ととぼけた声が返ってくる。そう、共有。ぼ、くはー、とオサムが言って、少し間があいた後、できると思うよ、記憶というのは、メッセージと一緒だからね、とオサムはぎこちなく言うが、なんかそういうことではないんだよな、とわたしは理不尽にオサムに対して思う。

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