小説

『にゃーちゃんのこと、またはそれらを巡る記憶などについてのあれこれ』ノリ・ケンゾウ(『玩具』太宰治)

でもそもそも自分の方が先に意味の分からないことを言い始めたことも分かっていたから、腹が立ったりはしないし、馬鹿にするつもりはない。たぶんわたしに不思議なことを言われて、オサムは詩人だから(というか詩人を目指してるって感じ)、詩的に返答しないととか、そういうことを思って言っただけだと思う。まあそれはいいのだけど、わたしがわたしの姿を憶えているというのは、どういうことなのか、それはやっぱり不思議。あ、でもさーあれかも、たまに実家かえったときにさ、ホームビデオっていうのか、ああいうのを見せてもらったりするじゃない。ホームビデオ? そう、あの映像とかがさ、頭の中に残ってて。自分の憶えている情報とリンクしたりするんじゃないかな。リンクねえ。オサムはない? なにが。自分の小さい頃の映像。あるよ、あるある。どんなだった? 原稿用紙を破いてたよ、びりびりびりびりね。さすがに嘘でしょ。嘘じゃないよ、僕は小さな頃から詩人だったから。へー、と言いながら、やっぱりわたしは全然信じてない。オサムだってわたしが信じているとは思ってないかもだけど、二人とも口には出さない。表面上は、オサムの言ったことがそのまま事実になる。でもたしかに信じられはしないんだけど、小さなオサムが原稿用紙をびりびり破いている映像を、実はわたしはありありと思い浮かべることができる。これは記憶? ん? ちっこいオサムが原稿用紙を一生懸命破いてる。それはね、記憶だね。記憶なんだ、じゃあそれはいつだれの記憶? いつだれって、なんの? ビデオを見たときのオサムの記憶なのか、ちっこくて原稿用紙を頑張って破っている最中のオサムの記憶なのか。あー、それはね、と言ってオサムはわたしに向き直って、両方だよ、と少し格好をつけて言った。わたしはその顔がおかしくて笑ってしまう。笑うことないじゃない、とおどおど言われて、それがわたしにはなぜだか可愛く見えてしまう。おどおどするオサムの姿に、まさにちっちゃいころのオサムの表情を見つけたのかもしれない。あのさ、にゃーちゃんがね、目玉が取れちゃったことがあったのよ。あら、目が、そりゃ可哀そうだ。そう、すごく可哀そうなのよ。言いながら、さっきオサムが言っていたことも一理あるなと思う。さっきは笑っちゃったけど。だってわたしの頭の中には、目玉の取れたにゃーちゃんを抱いて大泣きする自分の姿がありありと見えている。大泣きする自分を見ながら、手元に抱いたにゃーちゃんも見えている。それを思い出す自分の視点は、定まらない。泣いているわたしに気づいた母が駆け寄ってきて、どうしたどうしたとわたしの頭をなでた。ごしごし目をこすって涙を流しながら、母の腕の中に顔を押し付ける。わたしを見る母の困った表情は、そのときには見えていなかったのに、こうして思い返していると鮮明に見えている。これも記憶なのだろうか。あるいは記憶とはべつの。それはなんだろう。泣きじゃくるわたしをひとしきり宥めてから、おかあさんがね、裁縫セットを持ってきて、あっという間ににゃーちゃんの目玉をくっつけてくれてね。よかったね、にゃーちゃんが直って、と言うオサムの言葉と母の言葉が重なる。うん、とわたしは笑顔で頷く。わたしは嬉しかった。目玉がもとに戻ったにゃーちゃんを母から受け取って胸に抱いて、はじめて祖母にもらったときみたいに、頬をすりすりと擦り付ける。匂いを嗅ぐ。ニャーちゃんの匂い。匂いまで記憶に残っている。すー、と記憶の中の匂いを吸う。けれどさすがにそこまでは、分からない。ただ、あのときと同じ匂いや似た匂いを嗅いだときには必ずにゃーちゃんが頭に浮かんでくる、だからわたしは間違いなく、匂いの記憶を持っている。

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