イナバ君は私たちの突然の訪問にも関わらず、ショーが終わった後に会ってくれた。「イナバ君、俺たちのこと分かるか?」「違うわよ、アリスよ。」ユミコがショウヘイの上着の裾を引っ張りダメ出しする。「あ、ごめん。そうだった。」「いいわよ、イナバ君で。ショウヘイ君と、ユミコちゃんと…元アリスのササモトさん。アリスの名前、私が盗っちゃった。みんなあの頃の面影があるわねえ。私はすっかり変わったからびっくりしたでしょ?フフッ。」イナバ君は私たちのことを憶えていた。というより、忘れたくても忘れられなかったのかもしれない。「今日はわざわざ見に来てくれたの?」「あのね、イナバ君。私たちイナバ君がアリスの名前で踊ってるって聞いて、謝りにきたんだ。今更だけど。俺すごくイナバ君を傷つけたんじゃないかって。」そうショウヘイは切り出し、当時の無神経な言動を詫びた。「イナバ君、本当はあの時アリスの役がやりたかったんでしょう?」ユミコがイナバ君に問いかける。「確かに…そうね。でもあの時の私は男子生徒。そんなこと言えるわけがないじゃない。だからあれで良かったの。大好きな不思議な国のアリスをやれて、衣装までデザイン出来て嬉しかったもの。女性への憧れは、物心ついた時からあったみたい。私はね、勇敢で堂々としているアリスに憧れてた。実際の私は神経質で臆病な白兎みたいな子どもだった。ササモトさんは活発で可愛くて、アリスにピッタリで凄く羨ましかったの。私はあの頃から、将来は絶対アリスみたいな人間になるんだって思って、今ここに辿りついてる感じかな。家族とは疎遠になったけど。」「あのお母さんとも?」「うん。母は自分を責めて嘆いていた。私が洋裁を教えたのが女性化を加速させたんじゃないかって、悲しいけど誤解してるの。だけど、母には凄く感謝してる。デザインに興味を持つきっかけをくれたのは母。これが私の支えだもの。私ここで終わるつもりはないの。お金貯めて学校でちゃんとデザインを勉強したい。いつになるかわからないけどね。」そう話すイナバ君はキラキラと輝いて眩しかった。私は胸の内を明かした。「イナバ君、今は私なんかよりずっと立派なアリスだよ。夢を諦めないで自分を貫く勇気があって、堂々としてる。私は臆病で他人に流されてばっかり。仕事も何となくこなしてるだけ。」そう。私は親元から通える食品会社で、事務員として大きな夢や野望もなく生活している。「ササモトさん。流れに身を委ねるってことも大事だと思う。私は上手く流れていけないだけ。地道にお金を稼いで家族と一緒に普通に暮らせるのって、実は凄く難しいんだよ。」イナバ君は昔のようにニコニコしていたけれど、きっぱりとした口調だった。
「イナバ君は…アリスだったけど、やっぱり白兎でもあったわね。」ショーパブからの帰り道、ユミコがぽつりと言った。「どういうこと?」私とショウヘイがほぼ同時に聞き返した。「白兎って不思議の国へ導いてくれるでしょう?同じように、イナバ君は幻想的で不思議なショーの世界に誘ってくれたなって。見ててうっとりしちゃったなあ、あの美しさ。」私たちはふうっと甘い吐息をついていた。
それから数日間、「華やかなステージ上で舞い踊るアリス」と「小学校の教室の片隅で静かに絵を描いている白兎」が私の夢の中に交互に現れて、離れようとしなかった。