小説

『シェフのいないレストラン』島田悠子(『透明人間』)

「一人でやり切ったのに、うれしくないんだね」
 あまりの図星に美夕花は心ならずも彼の前で涙を見せてしまった。それが部長に美夕花を個人的になぐさめるきっかけを与えてしまった。彼には無限の包容力があり、とてつもなく善人で、他の多くの男と同様にズルかった。三か月もすると二人は男女の仲になっていた。美夕花は夏海への申し訳なさに潰されそうになり、それでも誰にもうちあけることもできず、誰かのぬくもりを求めて美夕花の心はさまよった。部長との秘密の恋は毒々しいほど甘く、この特殊な悩みを聞いてくれる人は部長しかいなかった。部長は美夕花をなぐさめ、甘やかし、別れを引き伸ばした。二人の関係が誰かの目に触れてしまったのは当然の結末でもあった。

「シーフードのシーザーサラダです」
 コトン、と置かれた皿。美夕花は慎重に皿を探す。こんなに気持ちがはずむのは、子供の頃、クリスマスの朝にプレゼントを開ける、あのとき以来かもしれない。あの頃はサンタを信じていた。母が読み聞かせてくれたお姫様の物語を信じていた。この世にはめでたしめでたしで終わる、永遠の愛があると。
 目の前に現れたサラダの皿には、宝石をちりばめたような手の込んだカットのカラフルな野菜たちが踊っていた。美夕花はそれを写真に残そうとスマートフォンを取り出そうとした。が、この店のルールを思い出し、その手を止めた。撮影は禁止。それは友人から事前に聞いていた。この感動と驚きはこの場限りのものなのだ。美夕花はとろりとしたベビーピンクのドレッシングをまわしかけ、カラフルなサラダをほおばった。なんて、美味しい。野菜がこんなに魅力的だなんて今まで知らなかった。サラダ、チーズ、ワイン、それだけでもこの店に来た甲斐があった。
 コトリ、と最後の音がする。
「お待たせしました。南フランスの子牛のパスタです」
 目の前には何もない。なのに、なんていい香り。美夕花はすぅっと胸いっぱいに息を吸った。あぁ、早く食べたい。美夕花は期待感と幸福感に満たされた。テーブルの上をさぐると、そこには新しいナイフ、フォーク、スプーン。そして、目の前にのぼる湯気のもとに指先を近づけると、メインディッシュが現れた。美夕花はまるで自分が魔法使いになったような気がした。美夕花は子牛のパスタを巻き取り、大きな口でほおばる。満面の笑みがこぼれた。柔らかくジューシーな子牛のステーキがデミグラスソースとからんで、かめばかむほど口の中いっぱいに味わいが広がってとけた。美夕花は夢中で食べ続けた。

 最後のワインを飲み干し、美夕花はグラスを置いた。
「ごちそうさまでした」
「デザートはいかがですか?」
 彼が言った。美夕花は迷った。おなかはいっぱい。でも、食べたい気もする。でも……。美夕花は考え直した。それは食欲じゃない、物欲だ。部長との不倫が愛ではなく、寂しさを埋めるための疑似恋愛だったように。
「また、今度にします」

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