小説

『シェフのいないレストラン』島田悠子(『透明人間』)

 美夕花はそう言って席を立った。帰り支度をし、会計をカードですませた。
「ありがとうございました。またのお越しを」
 彼の声は優しかった。またその声を聴きたいと美夕花は思った。

 帰り道、美夕花はいつもよりゆったりと歩いた。コツ、コツ、コツ、と、靴のヒールが鳴らすリズムが心地いい。東京の街もしばらくは見納めになる。いつかまた戻ってきたら、もう一度「ビストロ・ベルメイユ」に行こう、そんなことを考えながら。
「透明人間って、本当にいたんだ」
 美夕花はつぶやき、小さく笑った。透明人間がいるなら、サンタやおとぎ話の世界もまんざらウソでもないかもしれない。永遠の愛が、この世にはあるのかもしれない。福岡で一からやり直そう。そう思ったとき、美夕花の前をネコが横切った。それは迷いネコの張り紙のネコだった。急に現れたのはネコの方なのに、ネコは驚いたように目を丸くして美夕花を見た。美夕花はしゃがんでネコに話しかけた。
「キミは迷子なの? おうちはわかる?」
 ネコは足早に走り去っていった。ちっとも人間になついていない。野良ネコみたい。美夕花はくすっと笑った。
「あの子が無事に帰れますように」
 そう願って、美夕花はふと気づき、訂正した。
「あの子が帰りたいなら、帰れますように」
 もしかしたら、自由になりたくて自由になり、それを謳歌しているところなのかもしれない。不意に新しくひらけた人生が必ずしも前より悪いとは限らない。美夕花はスマートフォンを取り出し、部長の連絡先を消去した。もう彼と連絡を取ることもないだろう。自分も自由になろう。美夕花は続けて夏海の連絡先も消去した。自分の中のズルい依存心にけりをつけるために。
「さよなら、センパイ。ごめんなさい。ありがとうございました」
 不思議なほどに、美夕花にためらいはなかった。

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