水が来たときと同じように宙に浮いたワイン。美夕花の指先が触れたとたんにグラスが現れ、それがおもしろくなった美夕花に笑みがこぼれた。チーズの皿も探り当てると、その瞬間に魔法のようにチーズの乗った皿が現れた。美しく盛り付けられた各種のチーズとクラッカー、飾りのイタリアンパセリの緑と添えられたドライトマトの赤、オイル漬けのブラックオリーブの黒が鮮やかだった。
「透明になっているものって、マスターには見えているんですか?」
美夕花が聞くと、声の主は少し笑って、
「そうですね。見えると見えないのちょうど中間、半透明に見えています」
と、答えた。半透明? 美夕花はくすっと笑った。
「ご自分のカラダも?」
「いえ、自分のカラダは見えません。だから、ナイフを使うときは気をつけないと」
触れた物は半透明に見えるのに、自分のカラダは決して見えない。彼の生活はどんな風なんだろう。不便なんだろうか? それとも便利? 美夕花は少し想像したが、あまりイメージできなかった。あまり詮索するのも悪いので、美夕花は口を閉ざして、それ以上は聞かないことにした。
コンロにぼっと火がつく。そこにフライパンがのせられる。カタン、と音がし、焦がしバターのいい香りがただよう。肉の焼ける音が美夕花の食欲をそそる。鍋に沸騰した湯があるのだろう、湯気がもうもうと立ちのぼっている。彼はてきぱきと料理をしていた。それが心地よい音でよくわかる。音を聞いているだけでもこんなに楽しいなんて。美夕花はチーズをかじりながらワインを一口、二口、とすすめた。
美夕花には夏海という憧れの先輩がいた。大学のワンダーフォーゲル部で一緒だった彼女は、男子顔負けの仕事ぶりと姉御肌の性格でサークルでも人望があった。ワンダーフォーゲル初心者の美夕花にいろいろなことを教えてくれた人。美夕花の失敗をフォローし、ときには厳しく叱ってくれた人。こんな人になりたい、こんな上司のもとで働きたい、美夕花は夏海に惚れ込んでいた。夏海と同じこの会社に内定が決まったときは文字通り飛び上がって喜んだ。同じ部署にはなかなか配属されないとしても、同じ社内で夏海が働いていると思えば美夕花は身が引き締まる思いがした。仕事に打ち込んだ甲斐があってか、何度目かの希望がかなって美夕花は夏海と同じ広報部に配属された。夏海は美夕花を歓迎し、そこでも新人の美夕花の面倒をみて導いてくれた。美夕花にとってこれ以上ないほど幸福な、充実した日々だった。
しかし、半年がたった頃、夏海が仕事を辞めることになった。妊娠がわかり、寿退社だった。相手は、長年、職場恋愛を秘密で続けていた部長。祝福されて去る夏海に、美夕花は心から祝福できない自分を呪った。
なぜだろう。なぜ、よりによって部長を好きになってしまったんだろう。美夕花は今でも不思議に思う。誰よりも尊敬する夏海先輩の夫であり、先輩を美夕花から奪った憎い男でもあったのに。
夏海がいなくなり、はじめて美夕花はプロジェクトを一人でまかされた。美夕花は夏海に教わったノウハウを活かし滞りなく仕事を完成させた。先輩がいなくてもできるとわかったあのときは、寂しくて、寂しくて、美夕花は泣いた。思えば、あのときだったんじゃないか。部長が美夕花の心の隙間に入り込んできたのは。