小説

『シェフのいないレストラン』島田悠子(『透明人間』)

「今夜のコースとアラカルトの内容は後ろの黒板に書いてあります。おすすめは南フランスの子牛のパスタですよ」
 声の位置からして美夕花の真ん前に彼はいる。どんな顔をしているのだろう。その声色からは30代くらいの年の頃で、おっとりとした好人物に思われた。
 美夕花はこの店に長居するつもりはなかった。友人にしつこく紹介され、少しだけその気になって来てみただけだった。美夕花はアラカルトで南フランスの子牛のパスタと、シーフードのシーザーサラダ、ブルゴーニュの白ワインとチーズを頼んだ。
「かしこまりました」
 声の主がさっそく料理を始める。テーブルの上に浮いて止まっている水のかたまりに美夕花がそぅっと手を近づけると、冷たいガラスの触感があった。その瞬間、グラスが現れた。
「あ」
 美夕花は声をもらした。
 この小さなレストランのコックは透明人間。彼が触れたものはみな透明になってしまう。でも、彼以外の人物が触れると物体はその色と輪郭を取り戻す。友人が言っていた通りだった。冷たい水が美夕花ののどを潤した。かすかにレモンの香りがするよく冷えた水だった。

 おとといの夜、突然の福岡転勤をひかえて、美夕花は職場の送別会を終えた。たくさんの別れの言葉と花束をもらい、宴会は大いに盛り上がったが、美夕花の心は沈んだままだった。栄転、とは言ったものの、要は上司との不倫を誰かに密告されたことで左遷をくらったのだ。東京で主任だった美夕花には福岡で副課長のポストが待っている。でも、半年も過ぎた頃には何かしらの理由がついて降格されるのだろう。主任よりも下のポストに。そうされてきた誰かを今まで何人も見てきた。社内でしくじった者にはそれ相応の末路があった。美夕花はこれから自分に何が起きるのか大体の察しがついていた。彼は美夕花を守ってはくれなかった。守るだけの男気も、力も、愛も、彼にはなかった。彼は東京で部長職にとどまったが、おそらく出世はもう見込めない。そしてほとぼりが冷めた頃、彼もどこかの支部に飛ばされる。今はやりかけの仕事があるから残っているにすぎない。彼はどんな思いで美夕花を見送ったのだろう。

 コトン、コトン、と、さっきよりも重たい音が二つした。
「ブルゴーニュのワインと、チーズの盛り合わせです」
 彼の声ははっきりと聞きとれるのに、こんなにもの静かで耳に優しい。美夕花が音のしたあたりをそっと手で探ると、
「気をつけて、そこにナイフがあります」
 彼が気づかった。

1 2 3 4 5