小説

『シェフのいないレストラン』島田悠子(『透明人間』)

 駅前の繁華街を五分も歩くと、あたりは落ち着いた雰囲気になった。華やかな街の灯りは遠のき、ちょうど住宅と店舗とが静かに共存している。まるで、海水と真水が混ざり合う汽水域のようなエリア。美夕花は迷子になった熱帯魚のように、あたりをうかがいながらゆっくりと歩みを進めた。
「このあたりだと思うんだけど……」
 私鉄に揺られているあいだにスマートフォンで検索した地図は記憶にとどめ、今は自分の力だけで歩いている。なぜか、そうしたい気分だった。「迷いネコを探しています」の張り紙がついた電柱。その角を曲がると路地はさらに細く暗くなっていた。昼間であればためいらいなく歩けるこんな裏路地も、陽が落ちて暗くなった今は数歩先ですら静寂と闇に包まれ、知らない者の侵入を拒んでいるかように見えた。目を凝らすと奥にほのかな灯りがともっている。その小さな小さなオレンジ色の光が、ひとりぼっちの美夕花に優しく手招きしていた。
「ビストロ・メルベイユ」
 それはフランス語で「驚異的なもの」「すばらしいもの」「不思議」という意味をもつレストラン。足元に置かれた暖色のステンドグラスのランプが看板代わりの見落としてしまいそうな隠れ家レストランだ。
「見つけた」
 美夕花は店構えを見上げた。自然にまかせるままに伸びたグリーンのツルが壁面をおおっていた。明り取りの横長に大きな窓がちょうど頭の上あたりにしつらえてあるだけで、外からは店内をうかがい知ることはできない。その窓から店内のアンティークシャンデリアが見えた。木のぬくもりを感じるドアは静かに閉ざされたまま、今夜の客を待っていた。このレストランは一晩に数組しか予約を取らない。そのうちの一人が、美夕花だった。
「こんばんは」
 美夕花はそっとドアを開けて店内に入った。見渡す限り、誰もいなかった。客席にも、カウンター型のキッチンの中にも。それなのに、
「いらっしゃいませ」
 落ち着いた男性の声が聞こえた。美夕花は思わず体をこわばらせた。この店を紹介してくれた古い友人から聞いていた通り。
 この店のシェフは透明人間。
 姿の見えない声の主にうながされるまま、美夕花はカウンターの席に着いた。トクトクトク、とボトルから水をそそぐ音がすると、まるで月の周りをめぐる宇宙船にいるように、宙に浮いた水のかたまりがこちらにむかってきた。コトリ、とコップを置く音がする。水のかたまりはそこで止まった。
「コースにされますか? それともアラカルト?」
 テーブルの上に水がしみてくるりと輪を描いた。ここに水をたたえたグラスがある? 美夕花は魔法のようなその光景にワクワクしながら、
「おすすめはどちらですか?」
 とたずねた。

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