彼の名前は若生皇嗣。わかおこうし。コウシ、ワカオ。コウシワカオ、コウシワカオ、あいだを取ってウシワカ。
「前の学校ではうし若って呼ばれてた。オレのことはうし若って呼んでいいから」
彼はそう言ってほほ笑んだ。ムサシは彼をそう呼びたいとは思わなかったが、しばらく彼と一緒にいて彼の提案は提案ではなく命令であることにも気づいていた。「うし若」、ムサシはきっちりそう呼ぶことにした。下僕。悲しくなる響きだ。ムサシに課せられた使命は、主にうし若の護衛。相手はうし若をラブラブテンションでつけ狙う女子連中だ。
「彼女作ると面倒じゃん、時間とられるし、お金もかかるし、勝手に好きなこともできなくなるし、なにかにつけて文句言われるし」
うし若は口を尖らせてそう言った。彼女がいたことのないムサシには「へぇ」という間の抜けた返答以外ないのだが、ひとまずは納得することにして、彼女たちをうし若に近づけないことを自分の存在理由としてのみこんだ。毎朝、毎夕のうし若の送り迎えはもちろん、ムサシは昼休みのお弁当作ってきました攻撃にも対応し、隠れてうし若の生写真を取って売ろうとする五条の輩がいればぶちのめして売り上げをコンビニで寄付させ、今後悪さしない旨、誓約書も書かせて血判も押させた。ムサシのかいがいしい働きぶりに気分をよくしたうし若はある日、こう言った。
「ムサシ、あだ名をつけてやるよ。お前は名前がムサシだから、そうだな……、ムサシだから……、ベンケーだっ!」
そこは宮本だろう。ムサシはそう思ったが、うし若の提案は命令なのだ。うし若が「ベンケー」だと言うのだから「ベンケー」で決定。そして、二人の関係は冷やし固めた真夏の寒天ゼリーのようにかっちりと確定した。「うし若とベンケー」、それは二人の主従関係そのものも言い表していた。
その日の夕暮れもベンケーは、押しよせる桃色集団を大きく広げた両手で制し、SPのごとくうし若の帰路を確保していた。これまで生きてきてこんなに女子に体当たりをくらった日々はない。はじめは女子との接触に恥ずかしながらドキドキもしていたが、慣れた今となっては仕事に集中、うし若の安全が第一である。と、女子たちの「きゃあきゃあ」のなかに小さな「きゃっ」が聞こえた。それはうし若への黄色い悲鳴ではなく、本当の悲鳴だった。一人の女子が猛烈な人波にのまれて倒れたのだ。それに気づいたベンケーは、そのままドミノ倒しになる前に埋もれそうになるその子の手を取ってひっぱり起こした。抱き起すような形になってしまい、さすがにベンケーも照れたが、その数秒の隙にも他の女子たちはうし若へと猛ダッシュしていた。
「あれ? ベンケー?」
まるで走るゾンビ映画のように走ってくる女子たちに、うし若は苦笑いすると正門へと軽く走って逃げた。
「うし若!」
うし若はそのまま車道へと走り出た。車が行きかう四車線の車道に。
「ぶつかる!」
誰もがそう思った瞬間、うし若は速度を上げ、まるで鹿のように高く飛び上がった。その瞬間の鮮やかさをベンケーは一生忘れないだろう。走る車を飛び越して、ホップ、ステップ、ジャンプ、おまけにもういっこ、と、うし若は四車線をあっという間に飛び越えて行ってしまった。ベンケーはあ然としたまま瞬きすら忘れていた。こちら側に取り残された女子たちも同じく。