小説

『うし若とベンケー』島田悠子(『牛若丸と弁慶の逸話』)

 冷たい小雨の降る三学期のある日。その転校生は鳥がさえずるような口笛を吹きながら、とっくに遅刻の時間帯を悠々と歩いてやってきた。目の覚めるような美しい空色の傘をさして。ムサシが五条のトップになってから、ムサシに敗れた人間や勝負を放棄し従順を誓う者たちは自主的に雨の日の傘を自粛していた。誰もが傘を持たずずぶぬれで登校する中、ムサシ一人だけが傘をさしている。それが雨の日の五条の風景だった。ムサシはちょっとみんなに悪いな、と思いつつも、それがひいては五条の治安維持につながるならば、自分は悪者に徹していようと彼らの決めたルールに口出しをしなかった。そんな中、その転校生は傘をさしてきたのだ。彼はまだムサシと相まみえたことがない。ムサシは千本目の傘の相手を彼に決めた。ムサシは彼の行く手をふさぎ、
「転校生。五条のルールは知ってるな。その傘を置いて行け」
 五条ではいわずもがなの通過儀礼をなるべく端的に彼に伝えた。と、彼は前のめりにしていた傘を上げ、ムサシを見た。目が合った瞬間、ムサシは思った。
「顔だけは殴らないようにしよう」
 それは、ムサシの心にそう誓わせるほどに凛と美しい顔をした少年だった。その真っすぐな透き通る瞳に見据えられ、ムサシは甘い金縛りにかかっていた。彼の中性的な美しさに完全に見とれてしまったのだ。彼がほほ笑んだ。全世界を虜にするような表情だった。胸キュンとはこのトキメキをいうのだろうか、ムサシがふと思った次の瞬間、強烈な飛び蹴りがムサシの顔面にクリーンヒットしていた。

 保健室で気がついたときには、ムサシの顔面には泥の靴跡がばっちりとスタンプされ、二人の勝敗を物語っていた。いつになく騒々しい破壊音に気づき、ムサシが窓から校庭を見ると、コレクションしていた999本の傘がゴミ収集車に次々と放り込まれているところだった。ムサシは思わず情けない悲鳴をあげた。宝物、というにはくだらない品だが、思い出の品には違いない。そんなふうに文字通りゴミ扱いされるのを見るのはショックだった。ムサシが廊下に飛び出ると、ケラケラと明るい笑い声が聞こえた。そこにいたのは、あの転校生だった。
「あんなにボロ傘集めてどうすんの?」
 彼に聞かれ、ムサシは答えにつまった。そもそも答えのない問いなのだ。
「処分していいよね? 用務員さんに頼んでおいた。だって、あれがあるとオレの傘が置けないんだもん」
 ムサシには新鮮な驚きだった。傘が置けない。傘をささないことが掟と化していた五条では、そんなクレームがついたことはなかった。転校生はそう言うとまた口笛を吹き、ムサシに背を向けて傘をくるくると回しながら立ち去ろうとした。
「ま。まてっ!」
 やっとで我に返ったムサシが彼に手をのばすと、転校生はそれが見えていたかのように的確かつ瞬時にムサシの手を傘で払いのけ、ムサシの鼻先に傘をつきつけた。すんでのところで止まったムサシ。もう少し反応が遅れていたら、ムサシの顔には穴が開いていたかもしれない。美少年はほほ笑み、甘えるような声でこう言った。
「お前は負けたんだよ、ムサシ。今日からお前はオレの下僕だ」

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