風の中に薫さんと同じ匂いを感じるのは、ここが薫さんの故郷だからかもしれない。薫さんは雪の降るこの町で生まれて、未知果の暮らした雪の降らない国へと移住してきた。
雪の降らない国では、女も男と同じように兵役に取られた。女だけの部隊が組織されて、薫さんもその一員となった。移住者はスパイと疑われることが多くあったために、表向きは志願兵として入隊したらしい。
一度、休暇のために帰国した薫さんと店で会ったことがある。薫さんはわずかな休暇の時間も惜しまずに店を開けていた。いつもと何も変わらないふうに本を磨き、本を読み、何も変わらない笑顔で、大好きなミルクココアを飲んでいた。
薫さんは潜水艦の部隊に配属されていた。主に暗号の解析やソナーで敵の動向を探るのが任務だったらしい。あのエシャロットのような指で銃の引き金を引いたり、その手で刀を振りかざすような姿がどうにも想像できなくて、潜水艦の乗組員なら安心だ。聞いたときにはそんなふうに思った。でも今、弾丸のような潜水艦を前にして、この弾丸に乗って戦地の海を駆け巡っていたことを思うと、未知果の胸は凍りついた。
ハッチを覗きこむと中は井戸のように深くて、長く開け放されていたために、艦底には雪が積もり、そこだけサーチライトで照らしたような明るさがあった。
こんなときは何と声をかければいいのだろう。ごめんくださいでは間が抜けているし、こんにちはってこともない気がする。未知果は結局「入ります」とだけ呟いて、ゆっくりと梯子を下りた。手袋をはずすと骨身にしみる冷たさで、それも懸命に耐えた。
サクッと足が雪に触れて、未知果は潜水艦の中に立った。艦内はとても狭くて暗いけれど、外からの光に計器類の蛍光塗料が反射して、眼が慣れてくるとトンネル状の艦内を見通すことができた。
「いらっしゃい」
突然、ハッチの閉まる音が聞こえて暗闇になり、やがて艦内の照明がついた。
そこは「風薫る頃」の店内だった。
窓辺には薫さんがいて、ミルクココアの甘い香りがする。
エンジンの起動する震えが一度だけあって、窓の景色が沖合に流れていった。やがて音もなく潜航するのを感じながら、動じることのない薫さんの懐かしい横顔を見ていた。
どれだけ潜っただろう。海面からの光が届かなくなり、海水の色が濃く深くなってゆくと、体の芯が鮮明になる感覚があって、静寂のまま、薫さんの囁きに満たない微細な言葉を、毛先や指で感じることができた。
「沈没した潜水艦には犬が残されていたの」
それは朗読のように胸に届いて、書棚のあいだから薫さんの姿を見ながら、次の言葉を待った。
「エンジンが故障して仲間はみんな死んでしまった。もう地上に戻ることが叶わないとわかった犬は、その寂しさから、ほかの潜水艦を沈めようとしたの。肉球を魚雷ボタンにのせたまま、やってくる潜水艦の様子を探った。でもそこは海流の墓場で、自力航行ができなくなった潜水艦ばかりが流されてきていたの。魚雷を撃つことなんてできずに、かといって相手を助けることもできずに、犬は苦しんだ。何日も、何年も、何十年も」
未知果は聞いているのが辛くなった。