小説

空蟬の街』広瀬厚氏(『幻影の都市』)

「出かけるか」彼はすす汚れた天井を見ながらひとり言った。
 寝転んだまま汚れたカーテンを開け空を見た。どんよりと曇っている。
「いやな天気だ、やめにするか」
「…… どうしようか」
「だるいしな…… 」
「やっぱ出かけよう」
「でもやっぱ……」ブツブツ言ってグズグズ三十分ばかしベッドの上にいた。
 やっとベッドを離れた彼は、寝巻に着替えもせず昨日からずっと着たままの、服と下着を脱ぎ捨て新しいものにした。
 彼は裏の仕事で稼いだ金を使って、己の果てなき欲望をわずかでも満たさんがため、気だるいながらも狭い部屋を出た。
 どんより曇った空の下、陰気な風が吹いて砂埃が道に舞う。彼は背中をまるめ伏し目がちに道を行く。両の手はポケットに隠れ、時折道端につばを吐く。砂埃がざらついた精神をよりざらつかせる。車のクラクションがざらついた精神を打擲する。不愉快な彼は、部屋を出たことを少しばかり後悔した。
 まず彼は色を満たしに春を買った。しかし結果それは満ちるどころか酷く陰鬱な気分を彼に与えるに至った。勝手な話、登りつめた瞬間とても虚しくなった。そこにいる自分自身を自分自身嫌悪し侮蔑した。後味悪く逃げるようにその場を後にした。
 次に彼は物質で心を満たさんと様々な店で色々な物を見てまわった。服飾、雑貨、家具、家電、趣味の物…… なぜか何を見ても虚しく思われ、結局何ひとつ買うことなく店を出た。
 彼はショーウィンドウに映った自分の姿を見て幽霊のようだと思った。それからコンクリートジャングルに建つビルを見上げた。混雑する車道を見た。雑踏を急ぐ人々を見た。これら都市のすべてことごとくが、幻影であるように思われた。
 街の片隅彼は、近ごろ手にいれた合成麻薬の錠剤を舌の上にのせ、そして左の奥歯でかみ砕いた。幻影の都市にさらなる幻影が現前し、空蟬の虚しさを暫し滅却させた。されどそれは偽りであるがゆえ、彼の心の闇は広がるばかりであった。

「人ちがいかな?」「いや、でも、涼だった気がする」「確かに涼だ!」「でもなんであのマンションから?」「やっぱ人ちがいか…… 」彼は部屋の中で酒を飲みながらつぶやく。
 ある日の夕暮れ時、彼がアパートを外に出ると、アパートの北東に建つ例の十階建ての古いマンションから、ひとりの男が出てきた。それを目に彼は、涼! とすぐに思い声をかけようとしたが、あれ? とすぐにまた思いなおし、声をかけとどまった。
 確かに涼な気がするけれど、自分の知っている涼とは、どうも感じが異なる。妙に沈んで覇気がまったく感じとれない。それどころか妙に陰鬱な雰囲気をかもし出している。涼は自分と違って、だいたいいつもあっけらかんと明るくしている男だ。それなのに?………

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