小説

『新宿夕景』緋川小夏(『かぐや姫』)

 友人の個展を見終わって、地下の画廊から階段を上り外に出た。ついさっきまで明るかったのに、空は既に群青色に染まっている。まさに秋の日は釣瓶落としだな、などと思いながら駅に向かって歩き出す。
 その道すがらビルの駐車場シャッターの横に小さな灰皿が設置されているのを見つけて、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。吐き出された白い煙が夕暮れの風に乗ってビルの隙間に吸い込まれてゆく。
 つい先日、女の子を産んで実家で静養していた妻が自宅に戻って来た。おかげで自宅は完全禁煙となり、換気扇の下やベランダでさえも煙草を吸えなくなった。なので、こうして一人で外出した時だけが絶好の喫煙タイムだ。
 そういう時代なら、そろそろ禁煙するか。そんなことをぼんやりと考えながら紫煙をくゆらせる。今日も帰ったら家事に育児に奮闘している妻の手伝いが待っている。生後三ヶ月になる娘は、くすぐったいくらい俺によく似ていた。
出産前、身重の妻と一緒にテレビドラマを観ていたときだった。
「あ、あたしこの女優さん好き」
 そう言って妻が指差したテレビ画面には、すっかり大人の女性に成長して綺麗になったサヤカが映っていた。
「へぇ……。この女優さん、なんて名前?」
 何気なさを装っていたけれど、俺の声は小刻みに震えていた。
「なんかこう、人を惹きつける不思議なオーラがあるのよね。名前は、えっとたしか……」
 すぐにネットで検索した妻が口にしたのは、俺の知らない洒落た名前だった。
「次は、この娘の時代が来るわよ。絶対に」
 彼女がサヤカの中に何を見出したのかは、わからない。けれどもその予告通り“サヤカ”はその後すぐにブレイクし、CMや雑誌でも見かけない日はないくらいの人気者となった。
 “サヤカ”はいつしか、すっかり別世界の人になっていた。俺の知っている“サヤカ”は、もうどこにもいない。それに対する嫉妬心は全くなかった。代わりに嬉しさと誇らしさと、ほんの少しの寂しさがあった。
 さて帰ろうかと煙草の火を消そうとしたそのとき、隣のビルとの狭い隙間に何かきらりと光るものが見えた。
もしかしたらあのときサヤカが捨てた指輪かもしれない。
 何故だろう。俺はそう思い、慌てて煙草の火を灰皿の縁でもみ消してその場に駆け寄った。心臓が早鐘のように鳴っている。
「あった……!」
 地面に這いつくばるように指輪を探して、拾い上げた物を外灯の下に晒す。でもそれは薄汚れた名もない金属の欠片でしかなかった。
「そうだよな……ンなわけないよな。ハハハ」
 全身から力が抜けて笑いがこみ上げる。こんな所にあるわけがないのだ。十何年も前にサヤカが棄てた指輪なんて。
 笑いながら思わず空を仰ぐと、空にはひときわ大きく丸い月が浮かんでいた。 
”サヤカ“は、もう絶対に降れることのできない遠い場所で美しく光り輝いている。今、俺を照らしている、この月にように。
 ひとしきり笑った後、俺は手に持っていた金属片をジーンズのポケットに押し込んだ。そしてひとり、駅へと向かって歩きはじめた。

1 2 3