小説

『新宿夕景』緋川小夏(『かぐや姫』)

 今にして思えば、それが俺とサヤカの幸せのピークだったのかもしれない。その後、乾いた木枯らしが吹く頃になると、俺たちの間には些細な諍いが絶えなくなった。
「ただいま」
「なんだよ、遅いじゃないか。食事はサヤカが作るって約束だろ?」
「ごめん。でも、あたしだって忙しいんだよ。バイトもあるし、せっかくのチャンスを逃したくないし……」
 その頃、サヤカには女優の仕事がぽつぽつと入ってくるようになっていた。小さな劇場で上演された芝居が有名ブロガーに紹介され話題となり、主演のサヤカが注目を浴びた。それ以来、少しずつ映画やテレビドラマの仕事が舞い込むようになっていたのだ。
「ちょっと売れ始めたからって天狗になっているんじゃないの?」
「何、その言い方。ヤな感じ。シュウちゃんだって自分勝手なくせに」
「それは、お互い様だろ」
「だって、あたしは……」
 俺はサヤカに嫉妬していた。
 映画監督として芽が出るどころか、相変わらず奴隷のようにコキ使われるだけの日々。疲れて帰宅しては行き場のないストレスをサヤカにぶつける。そんな自分に、つくづく嫌気がさしていた。
 心ない言葉は、それまでの幸せな日々を容赦なく灰色に塗り替えてゆく。
 ある日の晩、サヤカは見知らぬ男と一緒にアパートの近くまで帰ってきた。それを二階の部屋の窓から見ていた俺は逆上し、部屋に戻ってきたサヤカの頬をいきなり張った。
「痛い! 何よ、なんでぶつのよ!」
「オマエこそなんだよ! 男と一緒だっただろ! どうゆうつもりなんだよ!」
「あれは今、撮影しているドラマのADさんだよ。スケジュールが押して遅くなっちゃって、たまたま新宿に用があるからって送ってもらっただけなのに……」
 すっかり頭に血が昇っていた俺に、サヤカの言い分を受け入れる余裕などなかった。
「ADさん? へっ、すっかり女優気取りだな。ほんのチョイ役のくせに」
「口を開けば文句と嫌味ばかり。変わった……シュウちゃんは変わっちゃったね」
 上気していたサヤカの顔は、見る見るうちに怒りと涙でぐちゃぐちゃになった。
 バツの悪い俺はどうしたらいいのかわからずに、煙草を吸いながらふて腐れていた。するとサヤカは立ち上がり、ズカズカと大股で部屋の奥へと進んだ。そして窓を開けて左手の薬指にあった指輪を自ら抜き取って、外に向かって投げ棄てた。
「おいっ、何すんだよ!」
 サヤカは窓の外を眺めたまま何も答えない。指輪は大きな弧を描きながら、音もなく夜の闇に吸い込まれていった。
 そしてサヤカは、部屋を出て行った。
 一人になった俺は何もかも諦めてアパートを引き払い、新宿を離れた。そして映画監督になる夢を手放して、堅実で平凡な仕事に就いた。それっきり俺たちは、二度と逢うことはなかった。

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