小説

『新宿夕景』緋川小夏(『かぐや姫』)

 この地を訪れるのは、かれこれ十五年ぶりになる。かつて映像関係のバイトをしていた頃の友人が新宿で個展を開くというので、それを観にきたのだ。
 届いた案内状の住所には見覚えがあった。埃っぽい都会の片隅に咲いた、白いヒメジョオンの花。そんな素朴でささやかな暮らしをしていたことがある。
 その地名は若かった俺とサヤカの短い季節を、熱く鮮やかに想い起こさせた。

 当時、映画監督を目指していた俺は、事務所近くの居酒屋で働く一人の女の子と知り合った。彼女は女優志望で、小さな劇団で演技の勉強をしながら世に出るチャンスをうかがっていると言った。
それがサヤカだった。
 サヤカは愛嬌のある顔をしていたけれど、現代的な美人というタイプではなかった。早くに両親を亡くし、父方の祖父母にお姫様にように大切に育てられたらしい。年老いた祖父母に金銭的な負担をかけるのを嫌って、高校卒業と同時に家を出て自立したそうだ。
 俺も子どもの頃に両親が離婚して以来、ずっと母子家庭で育った。そんな二人だったから意気投合して恋におちるまで、さほど時間はかからなかった。
 サヤカが俺の部屋に転がり込むような形で一緒に暮らしはじめた。クーラーも風呂もない古い木造アパートでの質素な暮らしだったけれど、俺たちはたしかに幸せだった。
 女優志望の無邪気な女と、映画監督志望の不器用な男。
 男は「サヤカを主役にした映画を撮ってやる」と言い、女は「シュウちゃんが撮った映画でスクリーンに立ちたい」と言った。高層ビルの上に浮かぶ春の朧月を眺めながら、若い俺たちは互いに夢を語り合った。
やがて本格的な暑い夏が訪れると、俺たちは冴えない現実から逃れるかのように互いの体を貪り、拙い愛欲に溺れた。
 サヤカの体は抱くたびに、急激に成熟してゆくようだった。それは、それまで眠っていたサヤカの「女」の部分が「男」を知ることによって刺激されたからだと思う。誰もいない真夜中に人知れず咲く、大輪の月下美人のように。
 揺れるサヤカの肩越しに、新宿の高層ビル街のネオンが見えた。それは今にも手が届きそうで決して届くことのない蜃気楼のようだった。それでもいつか、あの目映い光の中に二人で立ってやると、俺はあらためて強く心に誓っていた。
 ツクツクボウシの声が新宿の雑踏にも響く頃、俺はサヤカに指輪を買った。夏の終わりにハタチの誕生日を迎えるサヤカへ贈る、ささやかなバースディ・プレゼントだった。
「えっあたしに? 嬉しい……シュウちゃん、どうもありがとう」
 まるでオモチャみたいな指輪だったけれど、サヤカは瞳を輝かせて少女ように喜んでくれた。そして指輪の内側に刻まれた修一&サヤカを表す「S&S」のイニシャルを、愛おしそうに何度も撫でた。

1 2 3