「なに? みてんの?」
って声かけたら月を指さした。
「ガラス器具でつくられた透明のトンネルをカタツムリが歩いてゆくんです」
え? 何の話? それにしてもセリちゃんは好感が持てる。ちゃんと俺みたいなんに丁寧語使ってくれてはる。
「それも、満月の夜には、東に。新月の夜には、西に向かって」
ぼっとしてて聞き逃した。セリちゃんは声が小さいからよーく聞いてへんと聞こえてけーへん。ぱーどん? ってな感じでもう一回いうていうて。
「アメリカのマサチューセッツ州にある海洋生物研究所での実験なんです。ある女性の学者さんがカタツムリをガラスの器具の中で一匹ずつ広場へと這い出させるという実験の過程で、そんなことを発見したらしいんですよ」
そこで実験をしていたその学者さんが他の大学の教授のアドバイスを受けて、カタツムリの習性がわかったんやって。セリちゃんは無心に続けた。セリちゃん、天体好きなんやな。
セリちゃん、ずっと月を見上げてる。
「メロス、満月の輝きのせいで走りやすいでしょうね」
そして溜め息。ふっと唇から白い息が道みたいに伸びてた。
しばらくふたりで黙ってて。この沈黙きまずないか? とか思ってなんか喋らんと、と気ぃ遣って、「カタツムリはそんなセンサーがあんねんな」って俺が遅れてさっきの話に反応したら、その話はさっき終わりましたって視線をよこしてきたけど、許せる。セリちゃんのことはあんたクビっていう気持ちにはならへんかった。俺、ちょっとセリちゃん好っきゃわ。
「ところで帰ってきますかね? メロス」
「ん?」
月から視線を外さずにセリちゃんが言う。
「心配せんときぃ。もし帰ってこなんでもあんたのこところしたりせーへんから」
ちょっとやさしい暴君演じてみたら、セリちゃんそんなことわかってますってな顔して、不器用そうに笑った。
それで、寒いから部屋に入ろうって思って俺が肩を両手でさすってたら、セリちゃん ぽつりぽつり喋り出す。
「体育館の床は、体育館シューズの青い底がこすれる度に、ちいさなウサギみたいな鳴き声をあげていたんです」
「え? 体育館?」
セリちゃん、こんな体たらくの俺にでも話したいことがあるみたい。
「ふたり一組のゲームのようなお遊びのようなものです。これってネイビーとか、FBIの訓練のひとつみたいで、やりましたか?王様も」
またぼうっと、セリちゃんの横顔みてたせいで、え? って狼狽えた。それにちゃんとやわらかく王様って呼び止められて、あ、俺かいなって我に返った。
「ひとりのひとは前を向いていて、もうひとりの人は、その背中を支えるために手で受け止めるためにそこにいて。前のひとが、静かにからだを後ろに倒すと、後ろのひとはその背中をしっかりと受け止める、いわゆるトラストフォー
ルっていうあれです」
あぁあれね、あれトラストフォールっていうんやって思って、あれも俺はでけへんかったって記憶を辿ってると、
「みえなくてもお互いを信じられるかみたいなことだと思うんですけど。僕、誰かを受け止めるときは、平気なのに。受け止められる側になると、とたんに躊躇してしまって。それもはじめて会うひとではなくてもう7年間ぐらいはと
もに過ごしているクラスメイトであっても、なかなか後ろに倒れることができなかったんですよ」