小説

『沈黙の太陽』三角重雄(『名人伝』)

 クリシュナの依頼の効果は抜群であった。服喪果て、修行の道に登ったナーラカだが、ルンビニの人々は彼の姿を認めるや、争うようにして己の家に導き、食物を供し、一晩泊めてくれた。ナーラカは沈黙の行に徹すればよかった。
 転機は八年後に訪れた。もとよりシャーキャ国は小国であった。八年かけて修行し、毎日宿を代えていたナーラカが泊まるべき家は、一国では間に合わなくなってきたのだ。そこでナーラカは、やむなく近隣のシュラーヴァスティー国まで足を伸ばした。
 するとたちまち、ナーラカは口のきけない乞食坊主扱いされ、迫害された。子供にまで石を投げつけられ、大人からも小突かれ、叩かれた。迫害は日増しにエスカレートした。何日も食事の布施をもらえない日もあった。
 それでもナーラカは修行を諦めなかった。埃にまみれ、足を棒にして歩き回り、棒で叩かれても足蹴にされてもひと言も発せず、毎日を耐えて生き、内に力を蓄え続けた。
 ナーラカが三十六の時、ガウダマ王子が妻を娶ったと風の便りに聞いた。ナーラカの心がわずかに動いた。ガウダマ王子が世俗の愛欲にまみれ、求道の人生から外れるのではと危惧したのだ。しかしナーラカは、すぐにその疑念を打ち消した。打ち消すには更に過酷なる沈黙行に邁進するしかすべはなかった。
 それからまた時が流れた。灼熱の大地を歩くナーラカがいた。ナーラカはマガダ国を歩いていた。グリドラクータ山の麓をよぎり、ガンジス川の河口を目指していた。体はやせ細り、ほとんど骨と皮だけになった。宿を求めて南に来すぎたかも知れないと、踵を返して再び西の方、王都ラージャグリハを目指したナーラカの耳に、「ガウダマ王子、出家」との噂が飛び込んできた。ナーラカは思わず太陽を見上げた。あれからまた十三年経っていた。ガウダマ王子は二十九歳になっているはずであった。
 カーシャーヤ三枚、托鉢、爪楊枝、それだけがナーラカの財産だった。これだけあれば不自由はない。いや、もはやナーラカは自由とか不自由とか、それが何だったか思い出せなくなっていた。カーシャーヤの一枚は身にまとい、一枚は寝る時に土に敷き、一枚は着替えであった。これだけあれば誰かの家を当てにせずともどこでも寝られる。いや、行住坐臥が瞑想状態となったナーラカは、寝ようが覚めようがあまり関係なくなっていた。
 沈黙行の成果だろうか、ナーラカは知らず知らずのうちに、アシタと同じ力を得ていた。即ちそれは未来予知の能力であった。
 ナーラカがブッダガヤの樹下で瞑想をしていると、目蓋の内にその人の姿がありありと見えた。ガウダマはこの地に来ている。そして、その時は近づいている。ナーラカの心眼は己に、未来のガウダマの姿を見せたのだ。六年後のガウダマは黄金の光背を輝かせ、菩提樹下に座っていた。それはまさに成道の姿!ガウダマが仏陀となられる日まで、後六年。ナーラカは心の震えを抑えかねつつ、「この地で修行しながらその時を待とう」と決意した。 
 その時まで、ナーラカはガウダマに会う必要さえ感じなかった。なぜなら、かつてアシタがガウダマの誕生を心眼で感知した如く、ナーラカの心は日の出の太陽を捉えることが出来ると分かっていたのだから。

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