「誰にも言うな…。よいか?」
「はい」
「明日じゃ」
ところが翌日、マーヤー妃の寿命は尽きなかった。ガウダマ王子はその日一日幸せに母乳を飲んだ。
その日に死んだのはアシタだった。死期近きを告げられていたとは言え、第二の父と慕ったアシタの死という覆しようがない現実を目の当たりにして愕然とし、ナーラカは心底悲しんだ。
それと同時にナーラカは、やはり不思議の感を否めなかった。そしてマーヤー妃の存命に首をかしげたのは、シャーキャ国に実にナーラカ一人であった。
マーヤー妃は翌日も翌々日も元気で、産後の肥立ちもよかった。一方、ガウダマ王子は光の子、あるいは奇跡の子たる面目を施しつつあった。三日目にはガウダマ王子はマーヤー妃を見て「ママ」と言った。更に五日目には目に光を湛え、「我はなく、我はあり」と言ったのだ。
シュッドーダナ王の喜びこれに勝るなく、神童誕生の評判は地に満ちた。ナーラカは、宮殿が喜びに沸き立つ様を見るに付け、伯父の漏らしたひと言、「ワシとてあれなら…」を思い出し、深く悲しみ、恐れた。伯父は身代わりになったのだ。しかしてその伯父もまた余命幾ばくもなかった上での身代わりだった。
果たしてガウダマ王子誕生六日目にして異変が生じた。妃のにわかな発病であった。今更の産褥熱に妃が苦しみ、高熱に焼かれ、あっという間に絶命したのは、赤子誕生後、七日目のことであった。国民は二重の悲しみに衝撃を受けた。それは国民的聖者アシタの死と、その死から程なくして王国を襲った悲劇、マーヤー妃の死であった。
悲しみに襲われたのはナーラカとて例外ではなかった。むしろナーラカこそ、最も悲しんだ男だった。しかしナーラカは、アシタとの約束を守り、どれほど涙がこぼれようとも唇を噛みしめて、一語も発しなかった。
アシタの葬送の儀には、クリシュナとナーラカの二人で葬儀をこなした。親戚一同、あの法論癖があり饒舌なナーラカが黙々と働き、しかも頑なに言葉を発しない姿を見て、日頃のナーラカの姿との違いに驚いた。
中に、アシタを失った無念さのはけ口を欲した男が、ナーラカへの違和感を疑惑に変えた。ナーラカが悲しみの言葉を口にしないことにつけ込んで、ナーラカを薄情者と決めつけたのだ。疑惑が一族に伝播する直前に、気配を察したクリシュナが、息子の決意を、
「ナーラカは我が兄の衣鉢を継いで出家し、修行の旅に出ることになった。息子のこの沈黙は、我が兄の遺志による沈黙行である」
と披瀝した。疑った男は、その一言で沈黙した。一族の誇り、アシタ仙人の遺志に逆らうものはいなかった。続いてクリシュナは語った。
「ついては皆さんにお願いしたい。兄はナーラカに過酷な行を課した。沈黙行のみならず、毎日の宿を変えることである。皆さん、いつかナーラカが皆さんの家の戸前に立った時、もしもわずかばかりの食べ物の喜捨とひと宿の施捨をいただけるなら、恩幸これに過ぎたるはない。寝場所に寝床は不要。庭の一部でも貸してやってほしい」