だが、彼らの蜜月は長く続かなかった。芳一が突然姿を見せなくなったのだ。彼の身を憂いて阿弥陀寺を訪ねた彼らの見たものは、全身を経文に包み、脂汗を流してブルブルと震える哀れな芳一の姿であった。そこで彼らは、改めて自分たちが人々から怪異と呼ばれる存在であり、生ある者たちとは相容れない存在であることを嚥下した。その実、芳一の体に書かれた経文は芳一自身の気の迷いによって法力を留めず、その姿は亡霊たちに丸見えだったので、その気になれば担ぎ上げて連れ去ることも出来た。だが、彼がそれ以上平家一門の亡霊と関わることによって被る災禍を思い遣った亡霊たちは、その音の詰まった耳だけを持ち帰った。それから先、彼らが人間社会と関係を持つことはなくなったのである。
芳一はその後、全聾全盲にして天下一の腕を持つ琵琶法師として名を轟かせた。平家の亡霊たちは、その噂を影ながらに祝いつつ、持ち帰った芳一の耳から僅かに洩れ出づる琵琶の音にひっそりと耳を傾けることを楽しみとしていたのである。
だが、芳一が死んで暫くすると、彼の耳は次第に音を奏でなくなり、最後には完全に黙りこくって、そのまま朽ち果ててしまった。亡霊たちはこの上なく口惜しがったが、それもまた諸行無常であると諦めた。そして、それから何百年もの間、彼らはまた管弦の一切無い、満たされぬ心を海草のゆらめきと月の明かりで誤魔化す日々を送ってきたのである。
しかし、「しーでーらじかせ」なる魔法の箱が手には入ったことで、彼らの生活にようやく色彩が取り戻された。殊に幼き帝は、それまでの空白を埋めるかの如く音楽にのめり込んだ。何百年ぶりかに見る屈託のない笑顔に、その物静かな幼子が芳一亡き後どれほど内に寂しい思いを秘めていたかを思い知らされ、時子をはじめ周囲の者はひたすらに咽び泣いた。
しばらくして、音曲は小鬼が奏でているのではなく、中に入っている「こんぱくと・ですく」……いわゆる「しーでー」なる円盤に記憶されているのであり、それを交換することで古今東西多種多様の音楽を聞くことが出来ると判明した後、その好奇心旺盛な幼子が更なる音楽との出会いを求めることは必然であったといえる。
「帝を喜ばせ申し上げたい一心から、これまで持ち去ったしーでーは数知れず。許せとは言わぬ。知らず知らずとはいえ、我は盗みを働き、あまつさえ帝に盗品を献じてしまった。さあ、遠慮は要らぬ。我を斬れ!斬り候え!」
まっすぐに芳平を見上げ、腰から外した銘刀・安綱を差し出す武者に、芳平はいささか困惑した。斬れと言われても、自分は人を斬るどころか、刀さえ持ったことがない。それにこの武者を斬ったところでどうなる。今までの損失が埋め合わせ出来るわけでもあるまいし……、だが代わりに代金を払えと言っても、彼らが亡霊であることを考えればそれは無駄な相談だろう。仮に払えたとして、ジャラジャラと宋銭だの明銭だのを持ってこられても困る。
――いや、だいたいこの人たち落ち武者だし、絶対お金持ってないよね。それに……。
芳平は、昔のことを思い出していた。クラスのガキ大将にいじめられたとき、初めて付き合った彼女が3股を掛けていたことが分かったとき、高校の受験勉強が嫌になったとき、当時人生を賭けていたバンドが、デモテープ審査であっさりとオーディションに落ちたとき……彼を支えてくれたのは、スピーカーから流れてくる音楽だった。そして、彼が大手レコードチェーンから独立して小さな店を開いたのは、そんな風に音楽を通じて救われる心に寄り添いたいと思ったからだ。日々の業務に追われ、売り上げに一喜一憂する中で、彼が忘れ去っていたことだった。