芳平は死の瞬間を覚悟してずっと待っていたのだが、一向に何も起こらない。このまま固まっていても仕方がないので、恐る恐る後ろを振り返ってみると、そこには信じられない光景があった。鎧武者は、刀を自らの横に置き、片膝を立て、芳平に頭を垂れていたのである。
「な、何をしちょる……んですか?」
芳平は思わず二、三歩後退りしながら、混乱する頭をブンブンと振った。
「すまぬ……。」
鎧武者の声が、少し震えているように感じられた。
「売り物であるとは知らず、盗むようなことをして面目ない。煮るなり焼くなりしてくれ。しかし、これには事情があるのだ。せめてそれを聞いてはもらえぬだろうか。」
芳平は完全に困惑していた。この厳めしい武者がこんなにも素直に謝ってくるとは思っていなかったし、そもそも平家の亡霊に頭を下げられているというシチュエーションが、全く以てしっくり来なかった。一体何が、この武者にそこまでさせるのであろうか。きっと余程の事情があるのに違いない。芳平はそう思い、事情を聞くことにした。
壇ノ浦の合戦の折、安徳天皇は祖母の時子に抱かれて入水した。時子はまだ六歳だった帝を慰めるために、
「海の底にも都がございましょう。」
と言って飛び込んだとされる。もちろん二人は諸共に溺死してしまうわけだが、時子の言葉に哀れな帝は最後の閃きを得る。海底をさまよう哀れな亡霊となった後、同じく海底に沈んだ平氏の亡霊達を集めて、彼は竜宮を作ったのだ。かくして、天皇という位にありながら、あまりに短い不遇の生涯を送った悲しき少年は、沈んだ海の底でようやく安寧の地を得たわけである。
竜宮での生活は至極穏やかであったし、そもそも幽霊だから衣食の心配も皆無であった。だが、一つだけ、陸上で生きていた時と比して欠落したことがあった。娯楽である。優雅に泳ぐ様々な魚どもや美しい海草を眺めたり、たまに浜へ上がって月を見たりすることもあったが、それも次第に飽きていく。少年は天皇らしい生活など殆どしていなかったから、特に我が儘を言うこともなく、静かに風景たちを眺めていた。だが、その瞳にふと宿る一抹の寂しさを、彼の幼さが隠しきれなかった。共に海底に沈むはずであった母親が源氏の兵士に引き上げられ、離ればなれになってしまったことにも起因していたのであろう。
孫を不憫に思っていた時子は、ある噂を耳にする。平家栄枯盛衰の物語を、世にも美しく詠い上げる琵琶法師があるというのだ。名は芳一。盲目の僧であった。時子は雑兵を遣わせて芳一を呼び寄せ、浜辺にて弾き語りさせた。少年はこれをいたく気に入った。しかしその心に突き刺さったのは、彼にはおおよそ関係のない沙羅双樹の物語などではない。芳一の奏でる琵琶の音。時に風に揺れる柳の如く優しい、また時に血を纏った太刀のように苛烈なその音が、幼き帝の脊椎を突き破り、脳天まで一気に突き抜けたのだ。少年は芳一を庇護し、毎日のように壇ノ浦に呼び寄せては、その琵琶の音に心を打たれるのだった。芳一もまた、彼らのただならぬ気配に気付いていながら、自らの琵琶をして彼らを感涙、嗚咽、歓喜せしめることに、それまでにない喜びを覚えていた。