芳平は思い切りずっこけた。あまりに腑の抜けた答えに、恐怖感が次第に薄れ、代わりに怒りがこみ上げてくる。
「何をすっとぼけちょるんじゃ!店に置いてあるんだから売り物じゃろうが!お前のせいでどれだけ店が赤字を出したと思っちょる。ちょっと待っとれ、警察を呼ぶからな。」
と、一通りどやしつけて踵を返したところで、防犯カメラの映像を思い出す。
――あれ?警察?警察でええんじゃろか……。だって店のドアは閉まっちょるし、やっぱりドアをすり抜けたってことやな。ということは……
非常に大事なことを、芳平はそこでようやく再認識した。こいつは鎧武者のコスチュームプレイにハマった哀れな変態万引き犯などでは無いのだ。芳平を、今度は別な恐怖が襲う。足がガタガタと震え、そこから動けなくなってしまった。そう、そこにいるのは人間では無い。怪異の類なのだ。そしてその赤い鎧甲から察するに、恐らく彼は、壇ノ浦に沈んでいった平家の……。
ガチャリ……と、背後で鎧の動く音がした。芳平は固唾を飲む。その実体のない刀で斬られたら、一体人はどうなってしまうのか、見当も付かないが、恐らく呪いによって死んでしまうのだろう。肉が腐り落ちるのかもしれない。いや、あるいは一瞬のうちに心臓発作で……。いや、寝ている内に平家蟹がワンサカと寄ってきて……。そんなどうしようもないことを考えながら、芳平はぎゅっと目を閉じた。
「やっぱり、何かあったんじゃないかな、教経。」
相変わらず座り込み、ラジオカセットの方を見つめたままではあったが、少年の声は少し憂いを帯びていた。その後ろで優しく微笑みながら、少年の祖母はその小さな肩に手を掛ける。
「心配はございません。能登殿ほどの猛者です。何かあったとしても、必ず戻って参りましょう。」
少年は何も言わず、ふーむ、とため息を漏らす。スピーカーからはちょうどウェス・モンゴメリーの「エアジン」が流れてきていた。普段は心地よいそのオクターヴ・フレーズの疾走感が、忙しない焦燥感となって少年の心をせき立てていた。
少年の祖母、時子もまた、少年を落ち着かせるために平静を装ってはいたが、いつもより帰りの遅い能登守のことをやはり憂いていた。摂津から持ち帰った魔法の箱で音楽を鳴らすには「こんぱくとですく」なる円盤が必要だと判明した時、一番にその調達係を買って出たのが教経だった。時子は、そんなパシリ役を能登殿にさせるのは畏れ多い、下っ端の足軽にやらせれば良いとなだめたが、熱血漢の教経を止めることは出来なかった。しかし暫くすると、教経が案外適役だということが分かったのである。下っ端の足軽などは「せだん」とか「けいとら」とか呼ばれる巨大なカラクリ馬に肝を冷やしてロクに道路を歩けなかったし、誘惑の多い平成の街中に出れば、色好きの兵士たちがあちこちへ寄り道をすることは目に見えていた。結局、剛胆で女っ気のない教経くらいしか、まともにこの任務をこなせなかったのである。
そんな教経が、今日はいつもより半刻も遅れて、未だ帰ってきていない。これが異常事態だということは、聡明な時子が一番分かっていた。そして、彼女以上に聡明なその少年を誤魔化しきれないということも、よく分かっていた。
時子は少年の心が幾分か落ち着いたのを感じ取ると、すっと立ち上がり、待機している兵達の元へと、静かに足を向けた。