「ご近所じゃないですか。これからも宜しくお願いしますよ」
「それはもう。ぜひ」
そう言って笑う彼女は、本当にきれいで、かわいかった。こんなひとを奥さんにできたんなら、そりゃ花束も贈るようねぇと思った。
毎回つっけんどんに万札を置いて「今いちばん綺麗な花を。任せます」と注文していた男の肩を思い出す。ぴしっとしたスーツで、そこだけが少し、よれていた。ネット注文も電話注文もできるのに、「今いちばん綺麗な花を」と言うためだけに、彼は来た。
「卜部さん」
「はい」
「花って、綺麗ですね」
「そうですね。花は、綺麗です」
「わたし、卜部さんの花にまもられた気がします」
「まもったのは、旦那さんですよ」
ううん。あのひとは、
そう言いかけて、彼女は口の動きを止めた。私も先を催促することなく、荷物をまとめて礼をした。彼女は会釈を返し、私もそれに応えて会釈しながら病室のドアを閉めた。
何度も何度も何度も。
ラ・カンパネラを聴いていた。
陽が落ちたばかりの藍色の部屋の中、スーツのままでリビングの椅子に座っている。
佐和がいない。
己の愚かしさよりも、この世の深淵に驚いていた。
――――――どうしてか、わからないの。
その声はすみずみまで優しく、冷静だった。
――――――わたし、消えたくなってしまった。だから、病院に行くね。
昼休みの電話。牛乳と卵を買ってきて、と同じ口調で佐和は言った。それに応えられる言葉は、俺の語彙にはなかった。
全ては穏やかに進んでいた。ストレスで体調を崩した女性が少しの間入院するという、ただそれだけの手続きが、穏やかに行われていた。
ストレス?
医者の説明は、どこに届くこともなく風に消えていくようだった。