小説

『さいごのひとはな』菊野琴子(『さいごのひとは』)

 中年女性の群れの間を縫うようにして進み、厚みのあるレザーの扉を押し開けると、一瞬では解析不能な香りが鼻腔に刺さった。
 舞台上には攻撃的な量の花々。その、数も知れぬ花の香りが、ホールに充満していたのだ。席に腰をおろし、となりの婦人たちのお喋りに聞き耳をたてていると、この花は今夜のピアニストによる特別な趣向だということがわかった。
「そこにかける金があるなら、チケットを安くしろよ」
 と口に出さなかったのは、素敵素敵と騒ぐ婦人たちに睨まれたくなかったからだ。
 演奏曲はどれもポピュラーなものばかりで、一応最後まで寝ることなく聴き終え、拍手の後、アンコール曲になった。
 ラ・カンパネラ。
 アンコール曲までポピュラーだな。と、素人が陥りがちな穿った感想を抱きながら、腕を組んだのを覚えている。
 それから、

 

 

「よく知られたお話だと思っていたので、冗談で言ったんですよ」
 しっとりと柔く光る肌を見ながら、私は頷いた。
 やはり何もしないのが一番肌にいいんだ。究極の美容法だけど、仕事してるとそれが一番難しいんだよねぇ。
「『さいごのひとは』」
 上の空だと思われないように、ちゃんと言葉を返す。
 ピンクの頬で、彼女は頷いた。
「有名ですよね?」
「どうかなあ。私は田舎のおばさんに絵本もらったんですけど、ひらがなのタイトルを見たとき、『最後の人は』だと思って、その上一度も読まなかったから、ずーっとぼんやり『最後の人がどうしたんだろう…』とか思ってました。本当は『最後の一葉』なのに」
「わ、それおもしろいっ」
 最後の一束を白い花瓶に生けて、ようやく仕事が終わった。
 毎週花束を届けるのが私の仕事。病室に花束を届けるサービスは長く続けていたが、ベッドをぐるりと覆うほどの花束を届けるなんてことは、小さな町の花屋にとっては初めてのことだった。
 毎週個室に伺い、一週間前の花の整理やら新しい花の水切りやらをする中で、佐和さんとは少しずつ親しく話すようになっていった。
「まあ、来週退院だからこそ、こうして笑い話として卜部さんに話せるんですけど」
「ほんとですよう。それでも、そんな話を聞くと、花屋としてはちょっと嬉しいですね。貢献できた感じ」
「これで最後なんて寂しいです」

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