小説

『さいごのひとはな』菊野琴子(『さいごのひとは』)

 横たわる佐和に「俺にできることはないか」と聞くと、「私の目に映る花が全部枯れたら、私は死ぬかもしれない」と言った。答えになってない。佐和は怯んだ俺に気づき、出来の悪い生徒に手間をかけるような優しさで言葉をつなげた。
「でも」
 ああ、嘘だな。
 続きを聞くまでもなかった。
 あまりに中身のない接続詞だった。俺が怯みさえしなければこの世に生まれる必要のなかったはずの言葉が続くのだと、すぐにわかった。
「もし花が消えなければ、死なないかもしれないね」
 指の先で触れるだけでもろもろと壊れそうな言葉。俺を一瞬だけ誤魔化すための嘘。本当は人の気持ちを慮る余裕など一滴も残されているはずのない彼女が、それでも絞り出してくれた、渾身の力でありながら砂の粒ほどに小さい、俺への愛情だった。
 ラ・カンパネラ。
 まだ佐和と出会ってもいない頃に演奏会で聴いた。
 晴天に揺らぐ湖のような青をひらひらと纏った花々が、舞台を埋め尽くしていた。その色が、アンコールでこの曲が始まった途端、変わったように見えた。
 淡い青から、紫へ、それから赤紫になり、閃くように黒になって―――もとの青へ戻ったのだ。花は盾のように、鉾のように、こちらを向いていた。
 小さな嵐に攫われたような一瞬だった。
 ……そう言えば、初めて佐和を見たときに思い出したのも、この光景だった。
 彼女の全身に淡い青の花のイメージがぶつかり、弾けて輝いた。単なる一目惚れにずいぶんな演出だなと、自分を卑下したものだ。
 藍色の部屋。陽は落ちたばかり。
 ――――――花を呼びにいかなければならない。
 俺が持っている金も、俺がこれから稼ぐ金も、すべて使ったってかまわない。俺にはその責任がある。べったりとした黒にからめとられて、佐和は動けないのだ。そしてその黒は、俺が吐く息の中に、ずっとあったものだ。
 役に立たないものを全て切り捨てた果てを、俺は見ている。引き返す道は闇に呑まれた。それでもひとつの儚い嘘が、月に光る石のように弱々しく俺を導いている。その光を辿り、花を呼ぶことができたなら、それはきっと盾のように、鉾のように、佐和を守るだろう。そしてもし、もとの淡い青に戻ったなら、佐和はどんな目で俺を見るだろうか。
 透明な音の粒が繰り返し頬を打つ。

 そろそろ月が昇る時間だ。

 

 

 ううん。あのひとは、
 そう言いかけて、やめた。卜部さんは優しい大人の笑みで、その先を促さぬまま、部屋をあとにした。

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