小説

『柿を食う時』室市雅則(『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』)

「柿、甘かったね」
「そうだね。柿、甘かったね。お母さんもそう言ってた」
 息子は嬉しそうに笑い、ふざけて男の髪を掴んだ。
「痛い、痛い!ダメだよ」
 ケタケタと笑って息子は手を放した。
小さな手に掴まれた男の髪には白いものが混じり始めていた。
「お返しだ」
 男は片手で息子をくすぐった。
 夕焼けの境内に子供の笑い声が響いた。

 柿を食おうとした。
 タイミングを見計らって。
 鐘が鳴る。
 ずっと前と同じ音。
 柿に歯が立たない。
「切ってくりゃ、良かったな」
 男は独り言ちた。
 息子と鐘を聞いてから、かなりの時間が経った後。
 男は、いつかと同じように一人で鐘の音を聞いている。
 頭は白くなり、歯も悪くなった。
 口を小さく開けて、柿の端に歯を当てた。
 二度目の鐘が聞こえる。
 少しだけ齧ることができ、欠片のような実を齧りながら、鐘を撞くお坊さんを見る。
 同じお坊さん。でも、自分と同じように歳を重ねたようだ。
 木の棒を引くのも一苦労といった様子。そう言えば、あの棒を何というのか知らないなと思った。いくつになっても知らないことばかりだ。
 だが、何年経っても、鐘の音は変わっていない気がする。
 もう一口、柿を少しだけ齧った。
 三度目の鐘が鳴る。
 男は何かを言いかけたが、柿の実と一緒に飲み込んで、俯いた。
 爪先のところにいたオンブバッタと目が合ったような気がした。
 オンブバッタは逃げるように、飛び跳ねて、姿を消した。

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