小説

『柿を食う時』室市雅則(『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』)

 男は彼女に手を差し出し、二人は手を取って立ち上がった。
「また来たいね」
 彼女が男に言った。
「また来ようよ」
 男はそう返した。

 柿を食わせた。
 タイミングを見計らって。
 鐘が鳴る。
 いつかと同じ音。
 柿が咀嚼される。
「超甘いだろ?」
「うん」
 プロポーズから数年後。
 男は隣に座る息子に、柿を食べさせながら鐘の音を聞いた。
 息子の口を拭う男の左手の薬指には指輪が鈍く光っている。
「もう一個ちょうだい」
「ああ」
 カットしておいた柿をタッパから取って、息子の口に運ぶ。
 自宅で男自身が皮をむいて、一口サイズに切っておいた。
「これも甘いよ」
「そうか。お父さんも一個貰おう」
 男もタッパから柿の実を一つ取って、口に入れた。
「甘いな」
 二回目の鐘の音が響いた。
「この音、何?」
「あそこに大きい鐘があるだろ。お坊さんが鳴らしてるの」
「何で?」
「時間を知らせる為だよ。今、四時だから四回」
 三回目の鐘の音。
「お母さんとも一緒に聞いたことあるんだよ」
「へえ」
「あと、『柿食えへば鐘が鳴るなり法隆寺』って俳句が有名なんだよ」
「ふうん。今日もお母さんと一緒だと良かったね」
「そうだね」
「お母さん、ここよりも遠くに行っちゃったの?」
 四回目の鐘が鳴る。
「そうだよ。ここよりも遠いよ。ずっと、ずっとね」
 男は息子を抱き上げて立ち上がった。
「お父さん」
「ん?」

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