小説

『柿を食う時』室市雅則(『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』)

 柿を食った。
 タイミングを見計らって。
 鐘が鳴る。
 思っていたよりも甲高い。
 柿を咀嚼する。
 超甘い。
 駅前のスーパーで買ったのだが、ポップに『超甘い』と下手クソな字で書かれていた。
 本当だった。
 甘さが口の中に広がる一方で、柿を食った男自身の内側は少し違っていた。

 遅い夏休みで旅行にやって来た。
 三十も半ばを過ぎて、やっと就職をした会社で得た初めての夏休み。
 口を糊することに苦心しながら、夢を追っていた。
 しかし、年齢と懐を考えると、そろそろ真っ当な職に就かねばと、志半ば、夢が実る前に諦めた。
 しかし、いざ職を求めようにも、特に経歴や資格があるわけではなく、不採用の嵐。自分は、社会不適合者なのかと落ち込み、八方塞がりの中で、偶然にも今の会社で働くことができた。
 これが社会かと、この年齢で初めて知る常識と言われるものに戸惑う日々。だが、まともな給金を得られることが出来ていた。
 その給料のおかげで、こうやって奈良まで来ることができた。
 妻どころか彼女もおらず、誘う友達もいないから一人旅。
 特に目的もなかったが、修学旅行以来に、もう一度行ってみようと思った。
『行った』という事実以外、特に覚えていることもなかったので、初めての土地のようで新鮮だった。
 ぶらぶらと一人で歩き回り、法隆寺に着いたのは夕方。
 一人で柿を食いながら、鐘の音を聞いた。
 これまで、どこに行くにも一人だったし、それに寂しさを感じたことはなかった。しかし、鐘の乾いた音色が男の胸の奥まで響き、そこに隙間風が吹いているように感じた。
 このままで良いのだろうか。
 自問した。
 しゃりしゃりと柿が口中で砕ける音と法隆寺の鐘の音が響く。
 仕事は生活をする為だ。夢はなくとも、何とか頑張らなくてはいけない。
 夕日に照らされた鐘を作務衣姿のお坊さんが撞いている。
 思ったことや、感じたことを口にして、誰かに聞いてもらいたくなった。
 あのお坊さんには、傍にいてくれる人はいるのだろうか。

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