小説

『愛はふたりが同時にめざめる朝』いわもとゆうき(『浦島太郎』)

 さらに時は過ぎて、乙姫と一緒に暮らしはじめてから三十年が経った。ぼくはすっかり白髪まじりになった。なのに乙姫は歳をとらない。いつまでも乙姫は若く輝いてる乙姫のままだった。時間の流れがぼくとは違っていて、きっとぼくといる時間など彼女にとっては永遠のなかのほんのわずかな数日の出来事にすぎないのだろう。歳をとらない彼女をまわりは訝しく見るのではなく、憧憬のまなざしで眺めた。ここは、そういう町だった。時折、乙姫がさびしそうな顔をのぞかせる時があった。そんなときぼくは玉手箱を開けてしまいたくなる。そうすればたぶん、彼女は竜宮城へと帰ることができるから。でも、と思う。帰したくはなかった。そう思うには、ぼくはあまりにも乙姫を愛しすぎていた。だからそんなとき、ぼくはふだんよりも何倍もの愛情を彼女に注いだ。そうすることで少しでも彼女のさびしさを紛らわせることができるならと思って。けれども、もし、仮にひと言でも乙姫が帰りたいと言ったなら、ぼくはためらわずに玉手箱を開けただろうと思う。だけど彼女はなぜか言わなかった。一度も。一度だって言わなかった。帰りたいと。
 時は乙姫に見とれるようにゆったりと流れていった。近頃は朝、ぼくが目覚めると、隣で寝ている彼女も同時に目覚める。ぼくは今では釣りがメインのツアー旅行会社を経営している。乙姫はさりげなく、おすすめスポットを教えてくれる。そのおかげでツアー客は増えてゆく一方だった。ぼくは今朝も最近引っ越したばかりの一軒家の玄関を時間通りに出る。乙姫が門扉まで出てきて見送ってくれる。そして彼女は手を振るぼくに投げキッスする。ぼくは会社への道すがら、風や鳥たちにヒューヒューと冷やかされるのが日課だ。

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