小説

『愛はふたりが同時にめざめる朝』いわもとゆうき(『浦島太郎』)

 翌日。昼近くに乙姫は目覚めた。乙姫をベッドに寝かせ、ぼくはソファーで寝た。それは正解だった。早起きのぼくは朝目覚めると熱いシャワーを浴び、軽い朝食をとってから午前中は読書をして過ごすのが日課だった。カルチャーセンターの授業は午後からで、しかも週三日でよかった。この社会に順応するにはそれくらいのペースがいいだろうという配慮のようだった。最近のお気に入りは世界各地の旅行記だった。今のありのままの世界をぼくの知識で知るにはそれが最適ように思われた。ルクセンブルクのページで乙姫が起きてきて「おはよう」と言った。「おはよう」とぼくも言って、本を閉じた。
「お酒、弱かったっけ? あんなにあそこでは飲んでたのに、ビールは別だったんだね」
 とぼくは言うと立ち上がって台所へ向かった。
「あれ、ビールって言うのね」
 と寝ぼけまなこの乙姫はぼくが座っていたソファーに座った。
 髪は乱れてはなかった。むしろ、パールのように艶があって美しかった。化粧くずれもしていなかった。いや、化粧をする必要がないのかもしれない。素顔のままが、もう化粧しているかのように色づいていて綺麗なのだろう。
「パンでいいよね?」
 とぼくはふり向いて聞いた。
「ええ」
 と乙姫は答えた。
 ぼくは用意していたラップをかけた皿を持ってソファーの前のテーブルに置いた。皿の上にはロールパンとスクランブルエッグとソーセージ。乙姫は珍しいものを見るかのようにそれを見下ろしていた。ぼくはコップにミルクを入れて、それもテーブルに置いた。乙姫はさっそくコップを手に取り、飲み干した。ぼくは冷蔵庫から牛乳パックを持ってきて、テーブルに置いた。一瞬、間があったが、乙姫はじぶんでミルクをコップに注いだ。ラップもじぶんではがして、手で食べようとした。ああごめんと、ぼくは台所からフォークを持ってきて、乙姫がケガをしないように渡した。乙姫は受け取ると、まずはスクランブルエッグを食べた。何度か彼女はうなずくと、次にフォークを置いて、ロールパンを小さくちぎって食べた。
「口に合うかな?」
 とぼくは聞いた。
「お口に合ってよ」
 と乙姫は微笑んでそう答えた。

 こうしてぼくと乙姫の生活がはじまった。乙姫のねらいはぼくに玉手箱を開けさせることだったが、ぼくが開けないかぎりこの夢のような生活が続くのだからぼくがみずからそれを開けるわけがなかった。乙姫はあの手この手で玉手箱の在処をぼくから聞き出そうとするのだったが、ぼくは決して口を割らなかった。よっぽどぼくに玉手箱を開けてほしいようだった。理由を聞いてもそれについては乙姫はかたく口を閉ざしたままだった。何かを守るためなんだろうと察しはついたが、どうやらぼくのそばに彼女がいることでそれは守られているようだった。確かに、まだ若いぼくは乙姫に会いに行くためにあらゆる努力をしただろうと思う。そのことじたいが危険を及ぼすことになるのかもしれなかった。
 乙姫がきてから一年が過ぎ、二年が過ぎ、あっという間に十年が過ぎた。さすがに最近の乙姫は玉手箱の「た」も言わなくなった。よそ者に寛容なこの町は、彼女のことも普通に受け入れてくれた。彼女は地域にもなじみ、今では積極的に毎日のように地域活動に参加している。きっとぼくが死ぬことによって、その危機は完全に消え去るのだろう。それまで乙姫は、ぼくのそばにいるのだと思う。

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