小説

『RYUGU嬢』村田謙一郎(『浦島太郎』)

「どうしました? さ、こちらへ。せめてものお礼をさせてください」
 私の混乱に構うことなく、乙姫は私の手を取り、奥の方へと連れてゆく。    

視界が狭くなり、全体にゆらゆらと揺れている。こんな感覚を味わうのは久しぶりだが、気分は悪くない。乙姫がさらにグラスにウィスキーを注ぐ。
「三浦さんって、ほんとにやさしい方ですね」
「やさしい? フフ……上司からダメ出しばっかくらってる……ダメリーマンだよ」
 ろれつが怪しいのも、もはや気にならない。
「しがない独身の31歳……友達も、彼女もいない。……楽しみと言えば、帰ってきて……アパートでひとり、猫動画見るくらい」
「猫、お好きなんですか」
「あいつらって……ズルい。あんなかわいいの……反則」
「私は、どうですか」と乙姫が顔を近づける。化粧の匂いとも違う、甘い香りが鼻をくすぐる。
「乙姫ちゃん……うん、かわいい」
 乙姫は微笑んで私の手を取る。
「いきましょうか」
引かれるがままに、私はフラフラとした足取りでカーテンの向こう側へと入った。

カーテンの奥のドアを開けると、そこは照明を落とした部屋になっていて、ベッドが置いてあった。また頭が少し混乱したが、乙姫はためらいもなくベッドに横になり、こちらを見た。黒目が潤いを帯びている。
「さあ、今夜はいっぱい楽しみましょ」
「乙姫ちゃん……これって、夢かな」
「じゃないですよ、ほら」
 彼女が私の手をとり、そっと頬にあてる。そこには、やわらかく温かい確かな感触。
「私は、ここにいるじゃないですか」
 思考が飛び、私は乙姫を抱きしめ、その唇を貪った……

 ……車の走行音に目を覚ますと、私は地面に足を伸ばし、建物の壁に寄りかかりっていた。格好はスーツのまま。だらしなく緩んでいるが、ネクタイまでしめている。口元に違和感を感じて触れると、よだれの跡がついていた。
ゆっくり立ち上がり、周囲を見る。頭がズキズキと痛む。寄りかかっていた壁は雑居ビルのもので、隣には時間貸しの駐車場。それは、ぼんやりと記憶にある、駅から会社への道中の風景だった。
 やはりあれは夢だったのか……でも、だとしたら、この二日酔いとしか思えない頭痛は何だ? どこで酒を飲んだ? それに彼女と体を重ねた時の感覚は、はっきりと私の中に残っている。疑問は沸いたが、今のこの情景からは、その記憶を肯定するものは何もなかった。腕時計見ると午前9時過ぎ。私はゆっ
くりと歩き出した。

 オフィスのドアを開けると、早速、待ち構えていたように課長の目と声が飛んできた。

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